戦国時代の大名や武将、ゲーム等について紹介。

歴史を楽しむ!

豊臣に勝利した徳川家康の勝利の影には、武器の技術革新があった




西暦1600年頃。

世界ではスペインとポルトガル、オランダが世界の覇権を争って対立。
各国は争うように、世界のあらゆる場所を植民地としていきました。
そして日本の銀(ジャパン・シルバー)の獲得を目指していました。

日本では、1600年におこった関ヶ原の戦いの後。
佐渡島には日本最大級の銀山があり、シルバーラッシュがわきおこっていました。
当時の日本は世界の3分の1の銀を生み出す銀山王国でした。
佐渡の銀は純度が高いことが判明していました。



オランダは徳川家康(とくがわ いえやす)に近づきます。

1602年、オランダは世界初の株式会社、東インド会社を設立。
現在の株式会社のルーツであり、画期的な組織でした。

徳川家康は、貿易国家オランダの最新式兵器である大砲や砲弾と日本の銀を交換。
当時のオランダはヨーロッパの軍事産業の中心地であり、多額の資金を投入していました。





1614年に、大坂の陣が勃発。
徳川家康と豊臣秀頼(とよとみ ひでより)の対立です。

徳川方は大坂城に攻め入ります。
豊臣方の大坂城からの銃弾の嵐により、徳川方の寄せ手は大阪城に近寄れませんでした。





大坂夏の陣図屏風(おおさか なつのじんず びょうぶ)  筑前(ちくぜん)福岡藩黒田家伝来

※全体屏風絵の中の大坂城付近の一部分のみを掲載





大坂城にいる豊臣秀頼には強力な味方がいました。
スペイン国です。

スペインを後ろ盾とする宣教師たちは、豊臣秀頼を支援。
キリスト教を布教するスペインは、キリシタン大名に豊臣家に味方するように説得します。

大坂冬の陣では、スペインのキリシタン商人が銃弾の材料となる鉛(なまり)を大量に大坂城へと運びこみました。
豊臣方は城内にて、毎日のように銃弾の製造をしていました。
大坂城の豊臣軍は攻め寄せてきた徳川軍に対して、銃弾を惜しげもなく使用したものと思われます。





大坂城の攻防戦がこう着状態におちいった頃。

攻めあぐねていた徳川家康のもとに、注文していたオランダ製の大砲がやっと届きます。
オランダ製造の大砲は最新式のブロンズ製のカノン砲で、有効射程は500m以上でした。

木造の建築であった大坂城に、オランダ製の大砲は恐ろしく破壊的でした。
砲弾は天守(てんしゅ)や御殿(ごてん)を直撃して、豊臣方に多数の死傷者を出しました。

※御殿(ごてん)
日本の城で城主や身分の高い人が住む邸宅のこと。

その破壊力を見た総大将の豊臣秀頼は戦意を喪失。

最終的に豊臣家は滅亡となりました。



大坂の陣において、徳川方にはオランダ国、豊臣方にはスペイン国が味方をしました。
徳川家と豊臣家の戦いは、ジャパン・シルバー獲得を求めてのオランダとスペインの経済代理戦争とも言えるかもしれません。





大坂の陣の勝利により、オランダは徳川家康の信頼を得ることに成功します。

オランダは徳川家康に大砲と砲弾を納品した代わりに。
代価として、銀貨12,000枚を受け取ります。

その後もオランダとの取引は続き、最盛期には年間94トンもの銀がオランダに輸出されていきました。
これによって、オランダは強国スペインに対抗する力を得ることになります。

オランダは他にも、徳川家康の許可を得て、槍や日本刀などの武器や日本人の傭兵を雇い入れます。
日本の戦国時代は大坂の陣で終わっていました。
日本の武士たちは失業に追い込まれていたため、多数の歴戦のサムライがオランダの傭兵として雇われたのです。

日本のサムライは、スペインから植民地を奪うため、オランダ軍として世界で戦っていったのです。





ページのトップに戻る