戦国時代を中心に、大名や武将、ゲーム等について紹介。

歴史を楽しむ!

戦国クイズ 上級 人物編

戦国時代のクイズ 上級 人物編 (第11問から第20問)を掲載。

戦国時代における大名や武将など、「詳しい人のみぞ知る」と思う人物をクイズにしております。





 戦国クイズ 上級 人物編 第11問

武田家の武将で、武田二十四将に数えられる人物。
村上義清が守る砥石城を調略によりわずか1日で攻略した武将は誰?










答え : 真田幸隆(さなだゆきたか、こうりゅう)

〇もう少し詳しく解説
真田幸綱(さなだゆきつな)ともよばれる。
武田信玄が攻めあぐねた砥石城を奪取したことから、知略は武田信玄に勝ると賞賛された。
その後は武田家の参謀の1人として活躍しました。



 戦国クイズ 上級 人物編 第12問

武田信虎の四男で、武田信玄の同母弟。
武田二十四将に数えられており、武田家の副将として活躍。
第4次川中島の戦いで、討死した人物は誰?











答え : 武田信繁(たけだのぶしげ)

〇もう少し詳しく解説
甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)の原型となる「武田信繁家訓」を作成。
信繁の教養をものがたるものとして注目された。
この家訓は江戸時代の武士の心得として広く読み継がれ、信繁は「まことの武将」と評されるほど敬愛を集めた。



 戦国クイズ 上級 人物編 第13問

今川義元が討死した後を継いだ人物は誰?










答え : 今川氏真(いまがわうじざね)

〇もう少し詳しく解説
父である今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれた後、今川家の当主を継いだ。
和歌や連歌、蹴鞠(けまり)などの技芸に通じた文化人であったといわれている。
今川家を滅ぼした人物として、和歌や蹴鞠といった娯楽に溺れたために国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。



 戦国クイズ 上級 人物編 第14問

陸奥国(むつのくに)の武将で、領土拡大して最盛期を築いた。
北は現在の青森県下北半島から、南は岩手県北上川中央部までの広大な領土を支配した戦国大名は誰?











答え : 南部晴政(なんぶはるまさ)

〇もう少し詳しく解説
南部家の広大な支配領域から「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた。
(旅で空の月が三日月の頃に南部領に入ると、連日歩いても領内を通り抜けられるのに満月になるまで日数がかかるぐらい、南部が治めている領地は広大だという意味)。



 戦国クイズ 上級 人物編 第15問

甲斐国の戦国大名。
嫡男である武田晴信と対立し、駿河に追放された武将は誰?










答え : 武田信虎(たけだのぶとら)

〇もう少し詳しく解説
娘婿の今川義元と会うために駿河国に赴いたとき、武田晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖して信虎を強制隠居させた。
そして、信虎を駿河に追放して、晴信は武田家家督と守護職を相続した。



 戦国クイズ 上級 人物編 第16問

関東管領である山内上杉家の家臣で、上野国の箕輪城主。
居城である箕輪城に籠城して守りを固めて、武田信玄の侵攻を6度にわたり撃退した武将は誰?










答え : 長野業正(ながのなりまさ)

〇もう少し詳しく解説
箕輪城に籠城しつつ、夜襲や朝駆けの奇襲戦法を用いて、6回にわたる武田家の侵攻を全て撃退したといわれている。
「業正がいる限り上州には手を出せぬ」と武田信玄に言わしめた戦上手の武将です。



 戦国クイズ 上級 人物編 第17問

武田信玄の五男。
織田信長の甲州征伐において、高遠城において最後まで抵抗し、討死した武将は誰?










答え : 仁科盛信(にしなもりのぶ)

〇もう少し詳しく解説
天正10年(1582年)2月、織田信長の命により甲州征伐が始まる。
兵3,000(500とする説もあり)が籠もる高遠城は信長の嫡男である織田信忠率いる5万の大軍に包囲された。
信忠は城主である盛信に降伏を勧告したが、盛信は拒否。
高遠城は早暁から織田軍の猛攻を受け、盛信は奮闘した後、自刃。
約500名余りの家臣も共に討ち死にして高遠城は陥落した。



 戦国クイズ 上級 人物編 第18問

元亀元年(1570年)、本願寺と織田家は交戦状態になった。
信長と敵対し、本願寺の教団を運営していた人物は誰?










答え : 顕如(けんにょ)

〇もう少し詳しく解説
織田信長に圧迫を受けるようになり、顕如は信長と敵対。
浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いは石山合戦と呼ばれている。



 戦国クイズ 上級 人物編 第19問

織田信長の嫡男。
信長が明智光秀に本能寺の変にて襲撃されたことを知ったのち、二条御所に籠城し自刃した武将は誰?











答え : 織田信忠(おだのぶただ)

〇もう少し詳しく解説
本能寺の変において、信長には脱出できる可能性は皆無だった。
しかし、信忠には京都から脱出できる可能性があった。
「当代記」によると、光秀襲撃の際に、側近の中には安土に逃げて再起を図るように諫言する者もいた。
その際に、「これほどの謀反を企てる奴(光秀)なら、どうして洛中の出入り口に手をまわしていないであろうか。無様に逃げ出して途中で果てることこそ無念である。悪戯にこの場所から退くべきではない」
と述べたというが、信憑性は定かではない。



 戦国クイズ 上級 人物編 第20問

黒田家の家臣として活躍して重臣となった人物。
その後、他国と頻繁に書状を交わしたことで謀反の疑いをかけられ、浪人となる。
1614年に大坂の陣が勃発すると、大坂方の誘いを受けて先駆けて大坂城に入城。
歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられている武将は誰?










答え : 後藤基次(ごとうもとつぐ)

〇もう少し詳しく解説
通称は後藤又兵衛(ごとうまたべえ)。
徳川家康からは、基次と御宿政友(みしゅくまさとも)のみが大坂方として警戒される名望家であった。
閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と賞賛された。



次の問題

戦国クイズ トップページ



ページのトップに戻る