戦国クイズ 上級 人物編
戦国時代のクイズ 上級 人物編 (第61問から第70問)を掲載。
戦国時代における大名や武将など、「詳しい人のみぞ知る」と思う人物をクイズにしております。
戦国クイズ 上級 人物編 第61問
1551年、政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされて、自害した周防国の戦国大名は誰?
答え : 大内義隆(おおうちよしたか)
〇もう少し詳しく解説
義隆は文化的関心が強く、文治主義的な戦国大名として知られている。
この時代の山口は西の京として繁栄の極みを迎えた。
義隆は家中や領民の動向が見抜けず公卿的生活を行い、国情を無視して臨時課役を増したことが大内家の滅亡につながったとされている。
戦国クイズ 上級 人物編 第62問
土岐家当主であり、美濃守護。
のちに家臣である斎藤道三によって美濃国から追放された武将は誰?
答え : 土岐頼芸(ときよりなり、よりのり、よりあき、よりよし)
〇もう少し詳しく解説
重臣の斎藤道三が頼芸の弟である頼満を毒殺する事件が起こった。
このことにより、頼芸は道三との仲が険悪となり、次第に対立。
頼芸は子の頼次と共に、道三により尾張国へ追放された。
頼芸は文化人としても知られ、複数の書画を書き残している。
鷹の絵を得意とし、彼の描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されている。
戦国クイズ 上級 人物編 第63問
伊達家の家臣で、伊達政宗の近習となった。
通称の小十郎(こじゅうろう)は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。
伊達家の軍師的役割を務めたとされる武将は誰?
答え : 片倉景綱(かたくらかげつな)
〇もう少し詳しく解説
伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。
剣術にも長け、幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われるなど、智勇を兼ね備えた武将であったと伝えられている。
景綱の知才は、天下人となった豊臣秀吉にも高く評価された。
奥州仕置のとき、秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとした。
しかし、景綱は政宗への忠義を選んで辞退しています。
戦国クイズ 上級 人物編 第64問
徳川家康の四男。
関ヶ原の戦いでは、井伊直政の後見の下で初陣を飾り、福島正則と先陣を争った。
戦いの最中に手傷を負うも、島津豊久を討ち取るなどの大功を挙げた人物は誰?
答え : 松平忠吉(まつだいらただよし)
〇もう少し詳しく解説
関ヶ原の戦いにおける論功行賞として、尾張国および美濃国に52万石を与えられた。
器量を備えた美男子で、人望も厚かった人物であると伝わっています。
戦国クイズ 上級 人物編 第65問
1600年、石田三成らが徳川家康に対して挙兵。
伏見城を任されていた徳川方の武将は城に立て籠もり、13日間の攻防戦の末に討ち死にした。
徳川家に対する忠節から、「三河武士の鑑(かがみ)」と称された人物は誰?
答え : 鳥居元忠(とりいもとただ)
〇もう少し詳しく解説
元忠の忠義を賞賛した家康は、伏見城に残された血染め畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちの頭上に掲げられた。
伏見城の床板は「血天井」として、京都市の養源院や宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
戦国クイズ 上級 人物編 第66問
秀吉に重用され、豊臣政権において五大老の一人として活躍。
備前岡山城主として、備前や美作、備中半国、播磨3郡の57万4,000石を領した。
関ヶ原の戦いでは西軍の主力として戦うも敗北、その後に領国を失った大名は誰?
答え : 宇喜多秀家(うきたひでいえ)
〇もう少し詳しく解説
宇喜多家における大名としての最後の当主。
関ヶ原の戦いでは西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。
小早川秀秋が東軍についたため、西軍は総崩れとなって宇喜多隊は壊滅した。
戦国クイズ 上級 人物編 第67問
室町幕府の第13代征夷大将軍。
三好軍が二条御所を襲撃したとき、三好の兵に討たれた人物は誰?
答え : 足利義輝(あしかがよしてる)
〇もう少し詳しく解説
傀儡として将軍を擁立しようとしていた三好家にとり、直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であったため襲撃された。
三好家の主君である義輝殺害は世間を憤慨させ、親しくしていた大名らは激しく憤った。
上杉輝虎は「三好や松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどであったといわれている。
河内の畠山家の重臣である安見宗房は「前代未聞で是非も無いこと。無念の至りだ」と怒りをあらわにした。
戦国クイズ 上級 人物編 第68問
朝倉家の一門でありながら、主君の朝倉義景を裏切って自害に追い込んだ人物は誰?
答え : 朝倉景鏡(あさくらかげあきら)
〇もう少し詳しく解説
景鏡は義景の首級と捕縛した母親や妻子、近習を信長に差し出して降伏を許された。
のちに上洛して本領を安堵され、信長から一字を貰って土橋信鏡(つちはしのぶあきら)と改名した。
主君を裏切った変節ぶりから「日のもとに かくれぬその名あらためて 果は大野の土橋となる」と詠われた。
戦国クイズ 上級 人物編 第69問
明智光秀の重臣であり、左馬助(左馬之助)の通称で有名な人物。
山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れたのち、坂本城で防戦したあと自害した武将は誰?
答え : 明智秀満(あけちひでみつ)
〇もう少し詳しく解説
明智光春の名でも知られている。
光秀の敗死を知った秀満が坂本に引き揚げようとしたとき、琵琶湖の湖上を馬で越えた「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。
堀秀政の軍に坂本城を完全に包囲されて死を覚悟したとき、秀政を城内へ迎え入れて秘蔵の名器を目録と共に与えたといわれている。
パナソニックの創始者である松下幸之助は「私心にとらわれることなく、いまわの際まで公の立場に立って判断し、処置を誤らなかったこの光春の態度には、長い歴史に培われた日本人本来の真価がうかがえると思う。
世の宝は何も秘蔵の名器だけではない。おたがいに与えられている日々の仕事は、これすべて世の宝である」と論じた。
戦国クイズ 上級 人物編 第70問
大坂の陣のとき、豊臣家(大坂方)の中心戦力となった大坂五人衆のうちの1人。
1614年、豊臣秀頼から招きを受け、身内を人質として残して土佐から脱出し、豊臣家に味方した武将は誰?
答え : 毛利勝永(もうりかつなが)
〇もう少し詳しく解説
大坂の陣が近いと伝え聞いた毛利勝永は、ある日妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。
しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流した。
これを聞いた妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ました。
勝永は喜んで一計を案じ、子の勝家とともに大坂城へ馳せ参じた。
のちにこれを聞いた家康は「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」と命じ、勝永の妻と次男の太郎兵衛は城内へ招かれ保護されたといわれている。
大坂城入りを励ました妻は、戦前に銃後の守りの手本として明治20年の「婦女鑑」に取り上げられ賞賛されている。
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