立花宗茂 (たちばな むねしげ) 1567年9月20日~1643年1月15日
立花宗茂は、大友家の重臣である高橋紹運(たかはしじょううん)の長男として生まれました。
のちに宗茂は立花家の養子として迎えられました。
豊後国(ぶんごのくに)、現在の大分県の出身で、九州地方にて活躍した武将です。
宗茂のことを豊臣秀吉は西国無双(さいごくむそう)と高く評しています。
徳川家康は、上杉謙信や武田信玄、織田信長に並ぶとまで評しています。
立花宗茂 福厳寺(ふくごんじ)所蔵

立花宗茂は15歳から72歳まで、生涯でおよそ50回もの戦場に立ち、生涯無敗を誇ったといわれている。
福岡県柳川市には、立花家史料館があり、宗茂ゆかりの品が数多くあります。
宗茂は並外れた体格の持ち主で、着用していた鎧の胴回りは約120cmもあった。
鎧の胴回りから推測すると、身長は180㎝ぐらいあった。
一般的な武将の鎧は90㎝ぐらいであるため、宗茂の体格はずば抜けて大きかったと言える。
宗茂の居城は立花城でした。
立花城は標高367mであり、急峻な地形を利用した山城であった。
曲輪(くるわ)は70以上あり、当時の城としてはかなり曲輪の数が多かった。
立花城の堅固さは普通の城と比較して、かなり高かったと言えます。
その立花城に、宗茂が18歳の時、秋月軍8,000人が侵攻してきた。
宗茂の率いる軍勢は1,000人だった。
その差は8倍もあり、圧倒的に不利だった。
通常では堅固な立花城に籠城するはずだったが、宗茂は秋月軍に奇襲をしかけることを選択。
奇襲してくるとは夢にも思っていなかった秋月軍は大混乱し、結果として軍を撤退させました。
宗茂は総大将として、指揮能力に秀でていたことがうかがえます。
1586年、九州で勢力を拡大しつつあった島津家が立花城に侵攻してきたこともありました。
島津軍は50,000の大軍勢、対して立花軍は1,700人。
途方もないほどの圧倒的な兵力差でした。
すぐさま宗茂は動きます。
立花家の重臣を派遣して、島津軍に降伏を願い出ました。
時間稼ぎのために、偽の降伏をしたのです。
なぜかというと、今この時に、島津家討伐を目的として立花城に向かって豊臣軍の大規模な軍勢が向かっていたからです。
偽の降伏で時間かせぎをしているうちに、豊臣家の援軍が到着。
島津軍は撤退していき、宗茂は立花城を無事守ることができました。
宗茂はこの好機を逃さず、撤退する島津軍を追撃します。
そして、島津軍に奪われた城を3つ奪い返す戦果をあげました。
これを知った天下人である豊臣秀吉は、宗茂を福岡県柳川の10万石の大名に任命しました。
晴れて大名として、立花宗茂は立身出世したのでした。
宗茂は15歳のときに立花家の養子として迎えられ、誾千代(ぎんちよ)と結婚した。
誾千代は立花道雪(たちばなどうせつ)の娘です。
義理の父親である立花道雪は大友家の重臣で、全国に名が知れ渡るほどの戦上手であった。
妻となった誾千代は女城主として知られており、薙刀(なぎなた)や鉄砲を得意としていた。
誾千代は家臣の妻たちを部隊として率いていたという記録がある。
宗茂の軍勢はなぜ強かったのだろうか?
宗茂の軍勢は矢をつがえるよりはやく、鉄砲を撃てたといわれている。
早合(はやごう)とよばれる道具を使って、2倍近くはやく鉄砲を撃つことができた。
この早合の技術は、南蛮貿易からもたらされた可能性があるといわれている。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、どのように振舞ったのかというと、宗茂は西軍に味方しました。
滋賀県にある大津城を攻撃するように指示を受け、得意の大砲や鉄砲を使用。
たちまちに、城に立て籠もっていた京極軍に勝利しました。
残念ながら、味方の西軍の主力本隊は関ヶ原で敗北してしまいます。
柳川の領地を没収され、宗茂は大名を改易されてしまいました。
わずかな供回りのみで浪人となり、京や大阪で暮らしはじめました。
生活はかなり困窮したそうです。
浪人となってしまった宗茂。
時間を持て余していることもあり、茶の湯や連歌、書道、香道、蹴鞠(けまり)について集中して学びました。
芸事に造詣が深いと徐々に評判になった宗茂。
その評判を聞いた徳川幕府の2代将軍となった徳川秀忠は、宗茂を旗本として召し抱えます。
召し抱えた理由として、戦の指揮官としての才覚だけではなく、幅広い教養を修得していたからである。
その後、旗本としての功績が認められて、徳川秀忠の御咄衆(おはなししゅう)に取り立てられます。
御咄衆とは体験談や芸事を将軍に披露し、アドバイスも行う役職のこと。
宗茂は12人いる御咄衆の中では、最も優れていると評判でした。
このとき宗茂は、文武に優れた武将として有名になっていました。
3代将軍徳川家光の代になっても、宗茂は重用されます。
長年の徳川幕府への貢献により、1620年に宗茂はかつて治めていた柳川の領地に、大名として復帰することが認められます。
改易されてから20年後の出来事でした。
その後、立花家は明治時代になるまで、柳川の大名として領地を統治し続けた。
