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森長可 (もり ながよし) 1558年~1584年5月18日




織田家の家臣。

森可成(三左衛門)の次男として生まれる。
父の可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から「鬼武蔵」と称されています。

筋骨たくましい偉丈夫として、戦場での勇ましさを伝える逸話も多い。

「人間無骨」の銘が彫られた二代目和泉守兼定(之定)作の大身の十文字槍を愛用。
「人間の骨など無いも同然」という鋭い突き味を持っていた事から名付けられたとされています。

百段という甲斐黒の名馬を所有。
名の由来については「居城・金山城の石段100段を駆け上がれるほどの健脚を持っていた」、「100段(反)を全力疾走できる」という言い伝えがあるが、不明である。











家督相続と初陣



元亀元年(1570年)に父である可成が戦死して、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継ぎます。

元亀4年(1573年)3月、伊勢国の第二次長島一向一揆攻めのため、織田信忠の部隊に参加して初陣。
稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ、信長よりその働きを称された。

同年の槇島城の戦いでは、老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡ります。
城内は既に殆どもぬけの殻であり、残念ながら高名とはならなかった。

翌天正2年(1574年)には、第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加。
関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。
信忠軍と一揆勢が川を挟んで対峙した際には、船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。

信忠配下の与力武将として、長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加しています。





武田家所領の甲州征伐



天正10年(1582年)の甲州征伐においては、団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢されます。
団と長可は、木曽口より信濃国の武田領へと侵攻。

松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。
逃げる正直の部隊を追撃して、数十騎を討ち取る活躍を見せます。



仁科盛信の守備する高遠城攻めでは、信忠率いる本隊を待ち合流。
森長可は本隊とは別行動で高遠城に押し寄せます。

森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がして城内へと女子供の区別無く無差別に鉄砲の一斉射を加えて陥落させます。
そこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃して、多くの敵を倒す。

本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘。
高遠城攻めの時は激戦であり、長可の鎧の下半身は高遠城兵の返り血で真っ赤に染まっており、その姿を見た織田信忠は思わず手負いかどうか尋ねたといわれています。

これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられます。
長可の旧領である金山は、弟の成利(蘭丸)に与えられている。





越後上杉家への侵攻と撤退



織田家は柴田勝家を主軸として、越後上杉家へ進軍していました。

森長可は上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城の救援に向かったという知らせを受けます。
長可はすぐさま5,000の兵を率いて、越後国への出兵を開始。

春日山城の兵はほとんど魚津城の救援に向かっており、手薄な春日山城に長可が肉薄します。
上杉景勝は春日山城防衛のために魚津城救援を諦めざるを得ず、春日山城へと兵を返す事となった。

これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落。
上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。



しかし、本能寺の変で信長が討たれると状況は一転。
敵地深く進攻していた長可は窮地に立たされます。
すぐに二本木の陣を払って越後国から撤退。

長可配下にしたばかりである信濃国衆たちは、出浦盛清を除いてほぼ全員が長可を裏切ります。
信濃国衆は森軍を殲滅する為の一揆を煽動します。
一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利。
唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝して脇差を与えています。





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小牧・長久手の戦い



天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となります。
森長可は、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付きます。

森長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙います。
出陣を願い出て許可を得ると、同日夕方出陣。
夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。
しかしながら、すでに小牧山は徳川軍の手に落ちていました。

長可出撃を忍びの連絡により察知した家康は、直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵。
早朝に森軍を捕捉した徳川軍は、羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開きます(羽黒の戦い)。

奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに陣形を立て直して戦線を維持。
迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みます。
しかしながら、これを一部の兵が敗走と勘違いして兵が混乱してしまいます。

その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。
もはや戦形の維持が不可能になり、敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功。
退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で、野呂宗長親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。



その後、膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。
この戦に際して、長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し、不退転の覚悟で望んだ。

徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣。
岐阜根より南下して岩崎城の戦いで、池田軍に横合いから加勢して丹羽氏重を討ちとります。
手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。

別の場所においては徳川勢も動いており、既に総大将である秀次は徳川軍別働隊によって敗走。
その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣。
池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。

堀秀政らに挟撃して家康本体と交戦すべく使者を送るものの、秀政らはそれを拒否して敗走。
もはや決戦は不可避となり、池田隊と合流して徳川軍との決戦に及びます。

井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成の家臣である水野太郎作清久の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死。

享年27歳。





人物や人柄、逸話など



森長可は、戦でも度々命令違反や軍規違反を犯し、それについての書状もいくらか残されています。
信長から下される処分は、口頭や書状での注意に留まり、蟄居などの重い処分は一度も受けていません。
信長の寵愛ぶりが窺えます。

書を好み、能筆であったという。
戦場において、常に矢立と紙を携帯しており、何か報告事がある時はそれらを取り出して自ら筆を取った。

茶道を嗜んでおり、津田宗及主催の茶会などにも招かれています。
名物の収集も趣味であり、特に東山御物の「沢姫の茶壷」は秀吉から金2枚を借金してまで手に入れたといわれています。
遺言により死後、所有していた名物のほとんどは秀吉へと譲られている。

武辺一辺倒に思われがちだが、政務への参加も意欲的であり、金山の町の発展の為に商業を重視した政策をとった。
強引な手段ではあったが政情不安の信濃を抑え付け、入領から1ヶ月あまりで越後への遠征を実現している。

小牧・長久手における三河奇襲の別働隊として出陣する前に、「自分の娘は医者に嫁がせよ。決して武家には嫁がせるな」という遺言を残しています。



長可の人物を知る逸話があります。

信長が京都に館を構えた頃、近江の瀬田に関所を設けて諸国大名の氏名を記し通行させていました。
長可が関所に差し掛かると、関守に下馬して家名を名乗るように言われます。
長可は急いでいるとして、下馬せずに名乗って通ろうとした。

しかし、関守は長可の前に立ちふさがりました。
「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事」と、関守を斬り捨ててしまいます。
止め立てすれば町を焼き払うと叫んだので、関所の木戸は開かれた。

長可がこの一件を話して裁定を仰ぐと、信長は笑って、「昔五条橋で人を討った武蔵坊弁慶がいたが、長可も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵守と改めよ」と言ったといわれています。