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本多忠勝 (ほんだ ただかつ) 1548年3月17日~1610年12月3日




徳川家康の家臣。

武勇に優れており、豊臣秀吉から「日本第一、古今独歩の勇士」と称されました。
「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、勇将として引き合いに出されたことがあります。



本多忠勝 武将図





肌身はなさず所持していた槍は、「蜻蛉切」(とんぼきり)。
天下三名槍と呼ばれた槍の1つ。
刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。
穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付きました。
茎には村正の一派と言われる「藤原正真作」の銘があります。
柄の長さは6mほどであったといわれています。
通常の長槍でさえ4.5mですから、大変長いですね。

兜(かぶと)は「鹿角脇立兜」を着用。
鹿の角をあしらっていて、兜の鉢の左右に立てて装飾としていました。

愛馬は「三国黒」。
家康の子である二代将軍・徳川秀忠より贈られました。
関ヶ原の戦いで、島津家との戦闘中に銃撃により死亡。

生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及びました。
いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。

徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)や徳川三傑(本多忠勝・榊原康政・井伊直政)に数えられており、家康の功臣として現在も祀られています。





九華公園にある本多忠勝の像







華々しい武勲



元亀元年(1570年)の姉川の戦い(織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦い)に参加します。

家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して、無謀とも思える単騎駆けを敢行。
この時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって、朝倉軍を討ち崩していきました。

武将としての器を感じます。
この単騎駆けにより、勝利の発端を作ったのですから素晴らしい采配と言えるかもしれません。

元亀3年(1572年)の二俣城の戦い(武田軍と徳川軍の戦い)の前哨戦たる一言坂の戦いでは、殿軍をまかされます。
武田軍の勇将、馬場信春の部隊を相手に奮戦、家康率いる本隊を無事に逃がし、撤退戦を成功させました。
この時に、本多 忠勝は味方を退却させるために、敵と味方両軍の間に割って入り、蜻蛉切を頭上高く振り回して踏み止まり、さらに武田軍が追撃しようとするたびに数度馬首を返し、見事な進退で殿軍を務めました。

この一言坂の戦いの殿軍での素晴らしい戦いぶりを観て、武田家の武将である小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしら(家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜)に本多平八(本多 忠勝は、平八郎と呼ばれていました)」との狂歌の落書をもって賞賛されました。

本多 忠勝の活躍は、この戦いにおいて抜きん出ていたようです。



元亀3年12月22日(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦い(武田軍と徳川軍の戦い)や、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加。
これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞されました。

「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と、本多 忠勝を詠んだ面白い川柳もあるほどでした。
敵味方に鳴り響く豪傑だったといえます。



天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦い(豊臣軍と織田・徳川連合軍の戦い)では、豊臣方16万の大軍の前に、徳川軍は苦戦して崩れたかに見えたけれども、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、約500メートル先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせました。

この振舞いを見た豊臣軍は、進撃をためらってしまい、戦機は去ったといわれています。

さすが天下に鳴り響いた武将です。
普通の武将とは行動が違います。
この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛されました。