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鳥居 強右衛門 (とりい すねえもん)




奥平(おくだいら)家の家臣。
陪臣(ばいしん)であったといわれています。

※陪臣とは、武家の主従関係において家臣の家臣を指した呼称のこと。又者(またもの)、又家来(またげらい)とも呼ばれた。



鳥居 強右衛門の主君である奥平家は、もともと徳川家に仕える国衆であった。
しかし、元亀年間頃に甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属。





武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡すると、奥平家は再び徳川家に寝返ります。
これを知った信玄の跡を継いだ武田勝頼は、奥平家に対して軍を興します。

天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲されてしまいます。
奥平家は三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託されており、約500の城兵で守備していました。

周囲を谷川に囲まれた長篠城はなんとか防衛を続けていました。
しかし、武田軍から放たれた火矢によって兵糧庫を焼失。
食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、落城寸前にまで追い詰められてしまいます。

このため、奥平家の当主である貞昌(のちの奥平信昌)は、最後の手段として家康のもとへ援軍を要請します。
武田の大軍に取り囲まれている状況下で、城を抜け出して家康のもとまで赴いて援軍を要請することは不可能に近いと思われていました。

この命がけの困難な役目を自ら買って出たのが鳥居強右衛門で、このときは36歳であったと伝わっています。
強右衛門は雑兵や軽輩の類であったとされています。

夜陰に乗じて城の下水口から出発。
強右衛門は水泳を得意とする男で、川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破。





長篠城を密かに脱出する鳥居強右衛門 月岡芳年(つきおか よしとし) 作画






翌朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火(のろし)を上げ、脱出の成功を連絡。
当日の午後に徳川家康のもとへ無事たどり着いて、援軍の派遣を要請した。

この時、幸運にも家康からの要請を受けた信長は、武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて到着していました。
織田と徳川を合わせて3万8,000もの連合軍は、翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。

これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。

早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。
ところが、城の近くの村で不運にも武田軍の兵に見つかり、捕らえられてしまった。
烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。

強右衛門への厳しい取り調べによって、武田軍は織田と徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知る。
織田と徳川の援軍が到着してしまう前に、一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。

武田の当主である武田勝頼は命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶように、強右衛門に命令した。
こうすれば長篠城の兵卒の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。

強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾して、長篠城の西岸にある見通しのきく場所へ引き立てられた。
しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「援軍はあと二、三日で来る。それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。





城中に援軍が来ることを伝える鳥居強右衛門 楊洲周延(ようしゅう ちかのぶ) 作画






これを聞いた武田勝頼は激怒し、その場で部下に命じて強右衛門を殺した。
(強右衛門の死は「斬られて死んだ」「磔にされた」の2種類が伝わっている)



強右衛門の決死の報告によって、援軍が来ることを知った奥平貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせます。
援軍が到着するまでの約2日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功。

援軍の総大将であった信長は、長篠城の味方全員を救うために犠牲となった強右衛門の壮絶な最期を知って深く感銘を受けたと言われています。
この強右衛門の忠義心に報いるために、自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられています。





余談

強右衛門が磔(はりつけ)にされるまでのわずかな間、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという武田家の家臣、落合左平次道久は強右衛門の忠義心に感動。
磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物(はたさしもの)として使ったという。
これを描き直した物が現存しています。

強右衛門の主家である奥平家では、のちに家運を高めたこの戦を「開運戦」と呼んでいます。
家康の縁者となった奥平貞昌は、岡崎譜代の家臣に引けをとらぬ待遇を獲得した。

強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いでいるそうです。
強右衛門勝商の子である信商は、父の功により100石を与えられました。

また、13代目の商次が家老になるなど、子孫は家中で厚遇された。
強右衛門の家系は現在も存続しています。

強右衛門の妻の故郷である作手(つくで)村、現在の愛知県新城(しんしろ)市作手の甘泉寺(かんせんじ)には、織田信長が強右衛門を弔うために建立させたと伝えられる墓が今でも残っています。

強右衛門の命を賭した行為は、太平洋戦争中には「戦陣訓」と関連付けて高い評価を受けています。

JR東海飯田線の鳥居駅は、強右衛門の最期の地にちなんでの命名である。