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高橋紹運 (たかはし じょううん)




大友家の家臣。

紹運は法名。
初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)。
のちに、筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。





天叟寺所蔵






永禄4年(1561年)、13歳で対毛利氏の第四次門司城の戦いに初陣を飾る。
その後は九州各地を転戦。

永祿十二年(1569年)に大友義鎮(宗麟)の命令で高橋氏の名跡を継ぐことを命じられる。
また、先代である鑑種の一字をとって名を鎮種と改めるとともに、岩屋城と宝満城の2城を与えられた。

以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪の補佐役を務めながら筑前国支配に貢献した。





天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく5万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来ました。
このときの高橋勢はわずかに763名ほどでしたが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦しました(岩屋城の戦い)。

籠城戦が始まって半月が経過した頃、島津軍は島津忠長が自ら指揮をして総攻撃を仕掛けました。
多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになりました。

紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。
紹運以下763名全員が討死や自害して、岩屋城は陥落。

享年39歳。



「高橋記」は紹運について、「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将であり。」と記しています。
また、紹運の人となりを義に於き「義に生き義兵を以て義に死んだ。家中の勇も仁義の勇である。」の評価があります。

岩屋城攻防戦で勝機はないに等しかったが、紹運の部下で逃亡したり島津軍に降伏したりした将兵は1人もいなかったといわれています。
それだけ紹運は部下から慕われていました。

自害する直前、最後の白兵戦では、紹運自身も島津勢へ突撃して大太刀を振るい、斬っては退き、退いては斬り、と1人で島津の兵17人を斬りつけたといわれています。

岩屋城の戦いの最中、島津方の武将が城方に矢止めを請い、
「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」
と問いかけました。

紹運は敵味方見守る中櫓の上から、
「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。
貴方自身も島津の家が衰退したとき、主家を捨てて命を惜しむのか。
武家に生まれた者として、恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である。」
と応え、敵方の島津軍からも感嘆の声があがったと言われています。



紹運の家臣に、前当主である高橋鑑種の頃からの筆頭家老で紹運の高橋氏相続に関わった北原鎮久がいた。
鎮久は耳川の戦いでの大敗を機に大友氏を見限るよう紹運の説得を試みるが拒絶されました。

降伏勧告は計5回で、島津方から3回、味方である立花宗茂と黒田孝高から岩屋城が防衛に向かない為に城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつ受けているが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っています。



岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われました。

攻め手の総大将島津忠長は、床几を離れ地に正座し、
「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。
紹運殿は戦神の化身のようであった。
その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。
彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」
と諸将とともに涙を流し手を合わせたと伝わっています。





余談

1587年、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。
帰途太宰府の観世音寺、後の山王の社に統虎を呼び、父紹運の忠節義死を
「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。
紹運こそこの乱世に咲いた華(乱世の華)である」
とその死を惜しんだと伝わっています。