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清水宗治 (しみず むねはる)




備中高松(びっちゅうたかまつ)の城主。
三村氏、毛利氏に仕えた。





備中国の一豪族の家臣の身分で、のちに備中高松城の城主となる。

この経緯については、諸説あります。

一般的には、天正の備中兵乱の際、三村氏譜代である石川氏の娘婿であり、重臣の立場にありながら、毛利氏に加担。
清水宗治は、備中高松城主の地位を得たとされる。

この備中兵乱は、文字通り備中一円を舞台とした三村氏 対 毛利氏の一大戦である。
三村親成(みむら ちかしげ)など、三村姓を名乗る三村一門でさえ毛利方についた者がおり、状況判断の問題であったと言われています。

このことに関して、清水宗治のことを「不忠」とは言えないと想像できます。





毛利氏の家臣となって以後は、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の配下として、毛利氏の中国地方の平定に従軍。
忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。





天正(てんしょう)10年(1582年)、統一政策を進める織田信長の家臣である羽柴秀吉(はしば ひでよし)、のちの豊臣秀吉は中国攻めを行う。
清水宗治は高松城に籠城して抗戦します(備中高松城の戦い)。

備中高松城は、当時数少なかった低湿地を利用した平城(ひらじろ)であり、鉄砲や騎馬戦法にも強いとの評判だった。
城を守るのは清水宗治で、3,000~5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではなかった。

秀吉は宗治に対して、「降伏すれば備中国を与える」という条件を出します。
しかし、宗治は応じなかったと言われている。



そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、宇喜多勢を先鋒に、3万近い大軍で城を包囲。
2回にわたって城に攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退した。

清水宗治の統率力やいくさ上手をうかがわせます。





毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は主君である信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせた。

信長からは、「1日も早く備中高松城を落城させよ」という厳しい命が下っている状況において、秀吉は水攻めを行うことを決定。
低湿地にある平城という、本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取った奇策であったといえる。

工事には兵士や農民らを動員し、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えた。
そのため、堤防は工事着手から、わずか12日という異例の速さで完成。

折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって、足守川(あしもりがわ)は増水して、200haもの湖が出現。
備中高松城は孤島と化してしまった。

秀吉の軍師、黒田孝高(くろだ よしたか)が策した水攻めにあって、城は落城寸前に追い込まれてしまいます。


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毛利方は、軍僧の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)を羽柴秀吉のもとに派遣します。
「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)の割譲と、城兵の生命保全」の条件で和議を提示した。

しかし、秀吉はこれを拒否。
「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉はいったん物別れに終わった。





毛利方は清水宗治に対して、救援の不可能であることと、秀吉に降伏するべきという旨を伝えます。
しかし、宗治は、自分の命を、城とともにしたいとして、これを拒否。

毛利方は安国寺恵瓊を高松城に送り込んで、再度説得を試みます。

宗治は「主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら、自分の首はいとも安い」と、安国寺恵瓊に固い決意を述べます。
宗治自身と、兄である月清入道、弟の難波宗忠、小早川氏からの援軍の将である末近信賀(せちか のぶよし)の4人の首を差し出す代わりに、籠城者の命を助ける内容の嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託した。





ちょうどこの時(6月3日夜)、羽柴秀吉は、明智光秀から毛利方に送られた使者を捕らえます。
織田信長が明智光秀の謀反によって、京都の本能寺で落命したという密書を手にする。

秀吉はすぐに軍師である黒田孝高と合議し、一刻も早く毛利と和睦して明智光秀を討つべく上洛する方針を固めます。



清水宗治は織田信長の死を知らぬまま、その2日後に、兄の月清入道や、弟の難波伝兵衛、援軍の将である末近信賀らとともに、水上の舟において切腹した。
享年46歳。





清水長左衛門宗治 落合芳幾(おちあい よしいく) 作画






辞世の句は、「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」。

清水宗治は、その辞世の句の内容どおりに、その名を後世に残しました。
清水宗治など4人の切腹は、武士の鑑(かがみ)として称賛され、武士の切腹の見本となったとのことです。





余談

後年、秀吉が天下を取った後に、清水宗治の子を直臣(じきしん)にし、知行(ちぎょう)一万石を与えようと述べた。
しかし、清水宗治の嫡男である清水景治(しみず かげはる)は、これを拒否。
毛利家に残ることを選んだと言う。

「毛利家文書」に、景治自身がその旨を書き残した書状があります。

清水一族の代々にわたる毛利家への忠誠心のあつさを物語っています。