鬼庭良直 (おににわ よしなお)
伊達氏家臣。
左月斎で知られています。
永正10年(1513年)、伊達郡小屋館の城主である鬼庭元実の子として生まれる。
天文8年(1539年)、父の隠居にともない家督を相続。
天文11年(1542年)に勃発した天文の乱(てんぶんのらん)においては、父と共に伊達晴宗方に属して戦う。
その功績を以て、長井郡川井城主となり、所領を2,000石に加増された。
永禄7年(1564年)、伊達輝宗が新たな当主となると、鬼庭良直を評定役に抜擢。
これによって、良直は遠藤基信(えんどう もとのぶ)と共に、輝宗政権の中核を担うことになる。
良直は輝宗の信任によく応え、天正初年には鬼庭氏に一族の家格が与えられた。
天正3年(1575年)、嫡男である綱元に家督を譲って隠居し、左月斎と号しています。
天正5年(1577年)の輝宗五弟である政重の国分氏入嗣に際して、事前の折衝にあたるなど、隠居後も、引き続き輝宗の側近にあって政務に従事。
advertisement
人取橋(ひととりばし)の戦い
天正13年(1585年)10月、嫡男である伊達政宗に家督を譲っていた伊達輝宗が殺害される。
輝宗の弔い合戦のため、二本松城を包囲していた伊達軍7,000は、二本松城救援の名目で駆け付けた佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍30,000と激突した。
伊達軍は圧倒的に不利な状況であった。
兵力に劣る伊達軍は、たちまち潰走。
戦闘は、連合軍の一方的な攻勢に終始した。
連合軍は伊達本陣に突入して、伊達政宗自身も、鎧に矢1筋、銃弾5発を受けた。
伊達政宗の窮地を知った鬼庭左月斎は、伊達政宗から金色の軍配(ぐんばい)を預かります。
左月斎は政宗を逃がすために、殿軍(でんぐん)を引き受けて敵中に突入した。
※殿軍(でんぐん)
しんがりの部隊。大部隊の最後尾で、敵襲に備える部隊のこと。
このとき、左月斎は73歳の高齢のために重い甲冑が着けられず、兜の代わりに黄綿の帽子を着けるという軽装であった。
大軍の敵中に軽装で突撃することを決意するとき、死する覚悟はもちろんあったと思われます。
当主の伊達政宗を逃がすことができるならば、自分の命は惜しくなかったのでしょう。
最前線に踏み止まって力戦し、鬼庭隊は200余の首級を取ったという。
この間に、政宗は辛うじて本宮城に逃げ込むことができ、九死に一生を得た。
しかし、伊達軍の殿軍を勤めた左月斎は、岩城常隆(いわき つねたか)の家臣、窪田十郎に討ち取られた。
享年73歳。
のちに、伊達政宗は、左月斎の隠居領分の知行を未亡人に与えます。
これを、終身安堵する旨の朱印状を発給して、その功に報いたとのことです。