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仁科盛信 (にしな もりのぶ)




甲斐国の戦国大名、武田信玄の五男。
別名 信盛、五郎。

森城、高遠(たかとお)城の城主。

信濃国(しなののくに)安曇(あずみ)郡の国人領主である仁科(にしな)氏を継承。
武田親族衆に列する。

異母兄に、武田義信(たけだ よしのぶ)や武田勝頼(たけだ かつより)。
同母の弟妹に、葛山信貞(かつらやま のぶさだ)や松姫(織田信忠の婚約者)、菊姫(上杉景勝の正室)がいます。


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武田信玄が当主の頃

征服した信濃名族と婚姻関係を結び、親族衆に列することで懐柔させることが行われていた。

盛信は、永禄4年(1561年)に、父である晴信(のちの信玄)の意向で、仁科氏の名跡を継ぐ。
仁科氏の通字(とおりじ)である「盛」の偏諱(へんき)を受け継ぎ、親族100騎持の大将となっている。

※通字(とおりじ)
特定の家系において、代々にわたって名前に用いられる字のこと。

※偏諱(へんき)
功績のあった臣や元服する者に、自分の名の一字を与えること。



盛信は、仁科氏当主として、諸役免許や知行安堵を取り仕切る。
他にも、武田領国と敵対する越後国上杉家の国境警備を指揮しています。










武田勝頼が当主の頃

天正9年(1581年)、織田・徳川との争いが激化。
軍事再編成に際して、本来の居城である信濃国森城の他、高遠城の城主を兼任する。





天正10年(1582年)2月、織田信長の命により、織田軍による甲州征伐が始まる。

兵3,000(500とする説もあり)とともに、仁科盛信が籠もる高遠城は、信長の嫡男である織田信忠率いる5万の大軍に包囲される。

このとき、織田信忠は、盛信に降伏を勧告。
しかし、盛信は勧告を拒否。

降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。

この頃は、武田勝頼時代の末期で、衰退期です。
織田信長の甲州征伐に際して、一族や重臣の逃亡や寝返りが続く中。
圧倒的兵力差で、負けは必定という状況下です。

仁科盛信の武田の血をひくものの意地を感じます。





仁科薩摩守盛信 甲冑像






高遠城は、3月2日早暁から織田軍の猛攻に晒される。
仁科盛信は奮闘した後、自刃した。

享年26歳。

約500名余りの家臣も、共に討ち死にして高遠城は陥落。
織田軍も300人の死者を出したといわれています。

最期まで戦い抜いた点において、盛信の武将としての魅力を感じます。





盛信の切腹後、首級は信忠のもとに届けられる。
京の一条通の辻に、武田家当主の武田勝頼や武田信勝、武田信豊らと共に獄門にかけられた。

盛信を敬慕する領民によって、胴体は手厚く葬られたとのことです。

高遠城内の法堂院曲輪に盛信の墓所はあります。
3月1日を祭日と定めて、盛信を「新城神」として祀っています。

盛信の墓所には、現在でも献花が絶えないそうです。





余談

仁科盛信の子には信貞がおり、戦国の世を生き抜いています。

徳川家康との対面の際、敗将の子として罰せられるのを恐れたそうです。
仁科氏の存続と、盛信の家系を名乗ることを願い出て、それを許されています。

その後は、徳川旗本として江戸時代を乗り切り、現在に至る。



他に、盛信の子で、晴正がいます。
上総武田氏を頼って上総国に逃れて、子孫を現在に伝えています。