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吉川広家 (きっかわ ひろいえ)




毛利家の家臣。

永禄4年(1561年)11月1日、猛将と名高い吉川元春の三男として生まれる。

幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っています。





吉川広家像






元亀元年(1570年)、父と共に尼子勝久の討伐戦で初陣。

天正11年(1583年)9月、天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の元に、小早川元総(小早川隆景の養子)と共に森重政・高政兄弟との交換条件として人質として差し出された。
元春は隠居後の相手として広家を近くに置きたかったけれども、毛利家の安泰のために人質として大坂に向かわせたそうです。

同年10月3日(1583年11月17日)、大坂城において秀吉と謁見。
小早川元総が秀吉に寵愛され豊臣家の大名として取立てられたのに対して、広家はすぐに大坂から毛利家に帰されます。
帰国した広家は、上洛の労をねぎらう輝元より隠岐国を与えられた。



天正14年(1586年)11月に父である元春、次いで翌天正15年(1587年)6月に同じく従軍中で吉川家当主である長兄の元長が相次いで死去。
広家は吉川家の家督を相続。居城日野山城などを相続する。
さらに、毛利輝元から毛利氏の祖先である大江広元の諱から「広」の一字書出を与えられる。「経言」から「広家」と改名した。

また同年に秀吉の命で肥後国人一揆鎮圧のため出陣。

毛利輝元や豊臣秀吉から、毛利家を支えるその手腕を高く評価され、天正16年(1588年)7月25日、豊臣姓と羽柴の名字を下賜される。
豊臣広家として従四位下に任命される。

天正16年(1588年)10月、秀吉の養女となった宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)である容光院を正妻に迎え、形式上は秀吉の娘婿となった。
しかし、僅か2年後の天正19年(1591年)春に弱冠20歳ほどの若さで容光院は病死。
以後、広家は正妻を迎えず側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔ったとされています。

天正19年(1591年)に秀吉の命により、末次元康の居城であった月山富田城に入るよう命じられる。
広家は、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ14万石を支配することとなった。



文禄・慶長の役に出陣。
毛利家の別働隊を指揮し、碧蹄館の戦いに参戦して功を挙げます。
秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。

第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正の救援に赴いて、蔚山倭城を包囲した明将・楊鎬率いる明・朝鮮連合軍を撃退する功を立てた。
この戦において、広家は真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて総勢が一度に突撃したとのことです。
明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げ散りました。
この広家の奮戦ぶりは加藤清正から賞讃を得ています。



慶長2年(1597年)に叔父の小早川隆景が亡くなると、毛利家当主の毛利輝元から毛利秀元と共に毛利家を支えるよう要請されています。
名実ともに、広家は豊臣秀吉と毛利輝元、両方から信頼される武将となっています。





慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い。

広家は毛利輝元に対して、徳川家康率いる東軍に加勢するよう提言します。
しかし、毛利家の外交参謀役である安国寺恵瓊は、石田光成の誘いに応じて西軍に加担する旨を表明。
外交に通じた恵瓊は広家を嫌っていました。

主家に背いても東軍加担を主張する広家と、ひとたび事を起こした以上は西軍総大将の立場を貫くべきとする恵瓊。
両者は大坂城で激論を闘わせたとされています。

結局、毛利輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられます。





しかし、あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練ります。
恵瓊や輝元には内密にしたうえ、独断で朝鮮の役以来の友人である黒田長政を通じて家康に内通。
毛利領の安堵という密約を取り付けます。

一方で、関ヶ原の戦いの前哨戦である安濃津城攻略戦において、広家は西軍方の主力として奮戦。
西軍は総勢3万、安濃津城に籠城する東軍はわずか1,700。
最後は和平交渉により、安濃津城は西軍方のものとなりました。

この戦いを知った長政は、一時顔色を失う局面もあった。





関ヶ原決戦前日、広家は福原・粟屋の両重臣の身内2人を人質として送り、合わせて毛利家の戦闘不参加を誓う書状を長政に送っています。

同日付の本多忠勝と井伊直政は広家・福原広俊に連署起請文を送り、

・輝元に対して、家康は疎かにする気持ちがないこと。
・広家・広俊も家康に忠節を尽くしているので、同様に疎かにする気持ちのないこと。
・輝元が家康に忠節を誓うのであれば、家康の判物(はんもつ 差出人の花押のこと)を送ること。また、輝元の分国(領土)は相違なく安堵すること。

という内容が記されている。

また、同日付の福島正則・黒田長政の連署起請文では、先述の忠勝・直政の起請文に偽りがないことを重ねて証明している。





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9月15日の関ケ原の戦い本戦には西軍として参加したものの、家康に内通していた広家は南宮山に布陣。
総大将の毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。

あくまで西軍に加勢しようとする恵瓊や長宗我部盛親、長束正家の使者が来訪するが、広家は霧の濃さなどを理由に出撃を拒否。

毛利秀元にも「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。
これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。




結果は家康率いる東軍勝利となり、毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった。
合戦直後、広家は長政に使者を立て書状を送っています。

9月17日には長政と福島正則の連署で、「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」旨の書状が大坂城の輝元に送付された。
広家はこれで毛利家も安泰と考えていた。



しかし、2週間後の10月2日になって黒田長政から以下の内容の書簡が届いた。

家康からの毛利領安堵の密約は、輝元が否応なしに総大将に担ぎ上げられた場合のみである。
ところが、大坂城から発見された西軍の連判状の数々に輝元の花押があった。
困った事だ。
毛利の所領は没収のうえ改易されるであろう。
貴殿の忠節は井伊直政、本多正信もよく承知しており、毛利領のうち一、二ヶ国を与えるべく、ただいま家康に対して交渉中である。
直政に呼ばれたらすぐに行って下さい。
お供は数人で十分で、槍などは無用です。
これは決して罠ではありません。

毛利宗家の本領安堵は反故(ほご 無効の意味)とされ、その後、広家には周防・長門の2ヶ国を与えるとの沙汰があった。




広家はこの沙汰に対して、毛利本家存続のために家康に以下の内容の起請文を提出した。

私に対する御恩顧は後世まで決して忘れませんが、何卒毛利家という家名を残して戴きたく御願い申し上げます。
この度のことは輝元の本意ではありません。
輝元が心底人間が練れてなく分別がないのは、各々ご存知のことではないですか。
今後、輝元は家康様に忠節を尽くしますから、どうかどうか毛利の名字を残して下さい。
輝元が処罰されて自分だけが取り立てられては面目が立たないので、私にも輝元と同じ罰を与えて下さい。

もし、有り難くも毛利の家を残していただけたなら、輝元はこの御恩を決して忘れません。
千が一万が一、輝元が徳川に対して弓引くようなことがあれば、たとえ本家といえども輝元の首を取って差し出す覚悟でございます…。

広家の毛利本家への忠節がうかがえます。



広家のこの起請文に対し、家康は10月10日になって、広家に与えられるはずであった周防、長門の2ヶ国を毛利宗家に安堵すること。
毛利輝元・秀就父子の身命の安全を保障する旨の起請文を発行しました。

輝元の行為が毛利家を窮地に追いやった直接の原因とされています。
広家は毛利家存続のために尽力した立場ではあるものの、結果として毛利家を改易の危機にまで晒したということになります。

広家の行動そのものは、毛利秀元や安国寺恵瓊の方針に不安を抱く福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直ら重臣によって秘かに行われた会議の結果であった。
しかし、周防や長門に移封後、広家は毛利家の家政第一線から退くことになっていきます。

広家は毛利本家を救ったものの、冷遇されていきます。



防長への減封(領土削減)を受諾した毛利氏は、長門国の一隅萩に本拠を置いた。
毛利家は藩内を分割して長府、徳山の分家と岩国吉川領を置きます。

広家には本拠地萩からもっとも遠く東の守り、本家及び直系一門の盾の位置となる岩国3万石の所領が与えられてます。
広家は岩国領の初代領主となった。



長府・徳山・清末の三家は支藩として正式に諸侯に列せられました。
しかし、岩国領は藩とされず、吉川家は長州藩からは家臣として扱われた。

広家にとって屈辱的な待遇といえるかもしれません。

その一方で、家康からは岩国築城を許され、幕府からは大名としての扱いを受けます。
江戸に藩邸を構えて参勤交代も行われるという複雑な立場となった。

この微妙な立場は、2代目から11代目までの岩国領主の肖像画が描かれないなど、吉川家に様々な苦汁をなめさせることになる。





筆頭重臣の地位にあった福原広俊は、長州藩の執政である毛利秀元と政治的に対立していきます。
広家は、関ヶ原の一件を理由に表向きには動かなかったものの、反秀元派重臣の後ろ盾として福原広俊を助けていきます。

大坂冬の陣の際に、毛利秀元は毛利輝元や現藩主である毛利秀就らと極秘に内藤元盛を豊臣方に派遣。
この事実を広家や他の重臣には一切秘密にしていた事を知った広家は激怒。
慶長19年(1614年)12月22日に隠居して嫡男の広正に家督を譲り、福原広俊も藩の政務から退いた。




広家は家督を広正に譲って隠居した後もなお、岩国領の実権を握り続けます。

元和3年(1617年)には、188条にも及ぶ領内の統治法を制定するなど岩国の開発に力を注ぎます。
実高10万石(最盛期には17万石とも)とも言われる岩国領、そして現在の岩国市の基礎を築いた。



寛永2年(1625年)9月21日に死去。
享年65歳。



広家の次男で、吉見広頼の養子となっていた吉見政春は、後に毛利姓を名乗ることを許されます。
毛利就頼と改名して長州藩一門家老の大野毛利家を創設しています。