戦国時代の大名や武将、ゲーム等について紹介。

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上杉謙信 (うえすぎ けんしん)




別名、上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)とも呼ばれる。

戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の戦国大名。
後世において、「越後の虎」や「越後の龍」、「越後の獅子」、「軍神」と称されるほどの尊敬をあつめた武将です。

謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしませんでした。
他国から救援を要請されると、出兵して「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」 (私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)「白河風土記」と述べています。

「運は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり」(運は天が決めることである 鎧を身につけることで、自分の身体を守ることができる 手柄は自分の手足でかせぐことができる)。
自分の道は自分で切り開く。という意味で、謙信の言葉として伝わっています。

他にも、謙信は、宿敵といえる敵将の武田信玄の領国である甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。

上杉謙信は、権謀術策渦巻く戦国乱世において、とても立派な方です。





上杉謙信像 上杉神社(山形県米沢市)所蔵 






虎千代(謙信の幼名)は、天文12年(1543年)8月15日、元服して長尾景虎と名乗ります。
9月には兄である晴景の命を受け、栃尾城に入っていました。

当時、越後では、守護である上杉定実(うえすぎ さだざね)は、伊達稙宗の子である時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっていました。
養子縁組について、越後の国人衆は賛成派と反対派に二分されており、兄の晴景は病弱なこともあって、内紛を治めることはできませんでした。

景虎が元服した翌年の天文13年(1544年)春、兄である晴景を侮って、越後の豪族が謀反を起こします。

15歳の景虎(謙信)を若輩と軽んじた近辺の豪族は、栃尾城に攻めよせました。
景虎(謙信)は少数の城兵を二手に分け、別動隊である一隊に、敵本陣の背後を急襲させます。
混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功。
謀反を鎮圧することで初陣を飾りました(栃尾城の戦い)。





天文17年(1548年)頃において、上杉家中で人気のあった上杉謙信は、病弱である兄の晴景に代わって、景虎(謙信)を守護代に擁立しようとの動きが盛んになります。
守護である上杉定実(うえすぎ さだざね)の調停のもと、兄の晴景は、景虎(謙信)を養子とした上で家督を譲って隠退します。
景虎(謙信)は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となります。

2年後の天文19年(1550年)には、守護である上杉定実(うえすぎ さだざね)は、後継者を遺さずに死去したため、将軍である足利義輝は、景虎(謙信)に越後国主の地位を認めました。





天文19年(1550年)12月、一族の坂戸城主である長尾政景(上田長尾家)が景虎(謙信)の家督相続に不満を持って反乱を起こしました。
謙信は、坂戸城を包囲してこれを鎮圧(坂戸城の戦い)。
長尾政景の反乱を鎮圧したことで、越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げました。





川中島の戦い

天文21年(1552年)武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護である小笠原長時が上杉景虎に救いを求めてきました。
さらに、翌年の天文22年(1553年)4月頃、信濃国葛尾城主の村上義清は晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出して、上杉景虎に援軍を要請しました。

ここに及んで、上杉景虎は武田晴信討伐を決意します。
ついに天文22年(1553年)8月、自ら軍を率いて信濃国に出陣。
ここから上杉景虎(謙信)と武田晴信(信玄)の川中島の戦いがはじまっていきます。



「川中島合戦図屏風」第四次川中島の戦い(岩国美術館所蔵)




川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及んでいます。
第一次川中島の戦い(1553年)~第五次川中島の戦い(1564年)までのことです。

実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみ。
世間で有名な「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多いです。
川中島の戦いにおける勝者ですが、決着つかずという結果です。





永禄3年(1560年)2月、北条氏政は、佐野 昌綱(さの まさつな)の居城である唐沢山城に、3万余の大軍で進軍。
北条氏政は栃木城(唐沢山城)を攻囲します。

8千の兵を率い、救援に向かった謙信は、自らが物見をして城主佐野昌綱の危急を感知。

謙信は「ここまで来て佐野昌綱を死なせてしまっては後詰としての名折れ。ここは運を天にまかせ、自分が敵の陣を駆け抜けて城に入り力を貸そう」と言い、
甲冑を着けずに黒い木綿の道服と白綾の鉢巻のみを身に付け、愛用の十文字槍(じゅうもんじやり)を持ち、またいずれも白布の鉢巻をさせた馬廻(うままわり)や近習(きんじゅ または きんじゅう)などと、主従合わせ数十騎(諸説あり)ばかりで北条勢3万5千の敵中に突入。

敵方はただあぜんとして見つめ、襲えば何か奇計を用いて報いられると思って誰も攻めかからなかったため、作戦のままに謙信は入城したといわれています。
これを見聞きした北条方の将兵は、謙信をして「夜叉羅刹(やしゃらせつ)とは是なるべし」と大いに恐れたといわれています。



翌朝に、謙信は佐野昌綱以下唐沢山籠城勢と協力して攻囲の北条勢に攻め掛かり、自ら槍を取って奮戦。
それに呼応して謙信が率いて来た越後勢(攻囲する北条勢の外側に在陣)も北条勢を攻撃します。
北条勢は約1千余りの死傷者を出して唐沢山包囲から撤退しました。



芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎 月岡芳年(つきおか よしとし) 作画