真田信綱 (さなだ のぶつな)
武田信玄と勝頼の2代にわたり、家臣として仕える。
武田二十四将のうちの一人。
武田家の騎馬200騎持の侍大将。
主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍。
初陣である信濃小岩岳城攻めで、一番槍の功名を挙げる。
永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒をまかされます。
永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げる。
元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍。
三方ヶ原の戦いでは、武田軍の先手を務めて奮戦。
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが、鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死。
享年39歳。
信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといわれています。
この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されています。
余談ですが、この2人は信綱を追って殉死。
その忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられています。
信綱は信玄に将来を嘱望されるほどの豪勇の持ち主で、弟の昌幸も信綱の勇を尊敬していたといわれています。
信綱は「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評されるほどの武将でした。