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小野鎮幸 (おの しげゆき)




立花道雪、宗茂父子に仕える。
関ヶ原の戦い後は、加藤清正に仕えた。



日本七槍・立花四天王の一人に数えられる。

「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将。
生涯で二十二度の大戦、多数の小戦に参加して全身刀や槍、矢、鉄砲による六十七ヶ所の傷を受けています。
大友・立花両家から合計六十八枚もの感状を受けた。

家中に由布惟信と共に、立花双璧と称揚され、鎮幸は奇の将を任じた。



関ヶ原の戦いでは、主君である立花家は西軍への参加を主張。
立花家は近江国にある大津城の攻略に参加します。
大津城の攻略には成功するものの、西軍は関ヶ原の主戦場において、敗北してしまいます。

その後、東軍の有力武将である鍋島直茂や加藤清正、黒田孝高(如水)は立花家の佐賀の柳川に対し、約32,000の軍勢にて進軍を開始。
これに対し、立花勢は迎撃のために、小野鎮幸を総大将とする約3,000にて出撃。

立花勢先鋒は、軍法を破って鍋島勢に対して独断で開戦。
しかし、立花勢先鋒はたちまち反撃を受けて続々と討死。

立花勢先鋒の窮地に、第二陣である立花鎮実と立花親雄は横合から攻めかけるも、後背を断たれて共に戦死。



戦況不利と見た総大将の小野鎮幸は、本陣前の橋を堅守します。
鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られた。
小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となった。

そのときに、水田方面の黒田如水軍を偵察していた立花成家が別動隊300を率いて敢然と鍋島勢に奇襲。
鍋島勢を混乱させた隙に、小野鎮幸は無事撤退に成功。

その後、西軍に加担したことにより立花家は改易。
主君である宗茂は加藤清正預かりになってしまいます。
立花家家臣たちの多くは立花家臣団の勇猛を知る清正に召抱えられ、鎮幸はそのまとめ役として肥後に残ったと言われています。

主君である宗茂は、わずかな家臣とともに各地を放浪する旅に出ます。
主君の恩を忘れていない鎮幸は、永年少しずつ金をためてはたびたび宗茂に送っている。

小野鎮幸、慶長14年6月23日、肥後国にて死去。

享年64歳。



余談

数年後、主君であった宗茂は柳川城主に返り咲くと、小野鎮幸の子孫は呼び戻されます。
小野鎮幸の子孫は、代々大組組頭兼家老を世襲したといわれています。