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母里友信 (もり とものぶ)




黒田家の家臣。

通称は太兵衛(たへえ)、または多兵衛(たひょうえ)と呼ばれる。





母里友信像 福岡市博物館 所蔵






天正(てんしょう)元年(1573年)の印南野合戦(いなみの がっせん)に初陣(ういじん)して以来、常に先鋒を務めて活躍した。

天正15年(1587年)正月より開始された九州征伐では、豊前(ぶぜん、現在の福岡県東部から大分県北部付近)の宇留津城(うるづじょう)攻めで一番乗りの戦功を挙げる。

慶長(けいちょう)5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、九州切り取りに動いた黒田孝高(くろだ よしたか)に従い、豊後国(ぶんごのくに)で蜂起した義兄である大友義統(おおとも よしむね)を降伏させる。
随所で類稀なる働きを見せる。

黒田軍の先手両翼のうちの一方の大将を任されており、黒田二十四騎の中でも、特に重用(ちょうよう)された黒田八虎(くろだはっこ)の一人。
槍術に優れた剛力の勇将として知られています。
生涯に挙げた首級は、実に76。
黒田家中で、一番の剛の者と賞賛されています。

天下三名槍(てんが さんめいそう)と呼ばれた槍の1つである「日本号(にほんごう または ひのもとごう)」を所持。福岡市博物館所蔵。
「黒田節」の母里友信の逸話の元となる日本号は、穂(刃長)は79.2cm。拵え(こしらえ)を含めた全長は321.5cm。総重量2.8kg の長身の槍です。
刃の中央の溝に、優美な倶利伽羅(くりから)の龍の浮彫がある。

日本号は、姿の美しさや完成度の高さから、現存する「大身槍」の中では究極の存在とされており、多くの写しが制作されている。





母里友信像 福岡市西公園






〇酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士 (民謡の黒田節)
これは文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)の休戦中の出来事に由来するとされている。

京都伏見城に滞留中の福島正則(ふくしま まさのり)の所に、黒田長政(くろだ ながまさ)の使者として赴いた。
母里友信は、福島正則の屋敷で酒を勧められる。
友信は、黒田家中でもかなりの酒豪の者であったが、使者である手前もあり、それを固辞した。
しかし、本人も酒豪である正則は「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧めた。
さらに、「黒田武士は酒に弱い。酔えば何の役にも立たないからだ」などと、家名を貶める発言をした。
そこで友信は、これを敢えて受けて、大盃になみなみと注がれた数杯の酒を一気に呑み干した。
褒美として、正則が豊臣秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望する。
正則は不覚を取ることとなったが、「武士に二言は無い」という言葉を受けて、褒美に差し出した。
これによって「呑取り日本号」という異名と、「黒田節」は黒田武士の男意気を示す逸話として広く知られるようになった。