戦国時代の大名や武将、ゲーム等について紹介。

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前田利家 (まえだ としいえ)




織田家の家臣。

天文(てんぶん または てんもん)20年(1551年)頃、14歳にて小姓(こしょう、武将の身辺に仕えて、諸々の雑用を請け負う職)として織田信長に仕える。
若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であった。
血気盛んで、槍の又左衞門(やりのまたざえもん)、槍の又左(やりのまたざ)などの異名(いみょう)をもっていました。
青年時代は、赤母衣衆(あかほろしゅう、馬廻(うままわり)から選抜された信長直属の使番(つかいばん)のこと)として従軍。
その後は、柴田勝家(しばた かついえ)の与力(よりき、より大きな大名に、加勢として附属させられた武将のこと)として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登(のと)一国23万石を拝領し大名となる。
のちの豊臣政権の五大老(ごたいろう)の一人。

※五大老
末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康、前田利家、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)、毛利輝元(もうり てるもと)の五大名を指す。





紙本著色(しほんちゃくしょく) 前田利家像 個人所蔵






弘治(こうじ)2年(1556年)、信長と、その弟の織田信勝による織田家の家督争いである稲生の戦い(いのうのたたかい)では、敵方の宮井勘兵衛(みやい かんべえ)により右目の下に矢を受けてしまいます。
味方が引くことを促すも「まだ一つも首級(しゅきゅう)を挙げていない」と言い、顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取りました。
この時、利家は矢を抜くことなく戦後の首実検にも参加したといわれています。



永禄3年(1560年)、利家は、信長の異母弟で同朋衆(どうぼうしゅう、将軍や大名の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと)の拾阿弥を斬殺。
利家は、出仕停止を受けていたのにも関わらず、織田信長に無断で桶狭間の戦いに参加。
計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参(きさん)は許されませんでした。

翌永禄4年(1561年)、森部の戦いでも無断参戦。
斎藤家重臣である日比野下野守(ひびの しもつけのかみ)の家来で、「頸取足立(くびとりあだち)」の異名を持つ足立六兵衛(あだち ろくべえ)なる豪傑(ごうけつ)を討ち取る功績を挙げました。
この時、足立以外にも首級1つを挙げています。
織田信長に今回の戦功が認められ、織田家への帰参がようやく許されました。





前田利家騎馬像 名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線(あおなみ線) 荒子駅(あらこえき)






姉川の戦い(あねがわのたたかい、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦い)では、浅井助七郎(あざい すけしちろう)なる者を討ち取る功績を上げます。

石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで、春日井堤を退却する味方の中で、ひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げます。
無事味方を退却させたことから「日本無双の槍」「堤の上の槍」と称えられています。

天正(てんしょう)元年(1573年)8月の一乗谷城の戦い(いちじょうだにのたたかい)、同2年(1574年)7月の長島一向一揆(ながしまいっこういっき)、同3年(1575年)5月の長篠の戦い(ながしののたたかい)では、鉄砲奉行としての参戦が確認されています。

北陸方面軍の一員として、 柴田勝家の与力として上杉軍と戦うなど、北陸地方の平定に従事。
織田信長の命により、摂津有岡城(せっつ ありおかじょう)攻め(有岡城の戦い)、播磨三木城(はりま みきじょう)攻め(三木合戦)にも参加。信長の直参(じきさん、主君に直接仕えること)的役割は続いていたものと思われる。

天正(てんしょう)12年(1584年)の豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄(おだ のぶかつ)が衝突した小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)では、佐々成政(さっさ なりまさ)は徳川家康らに呼応。
前田利家のいる加賀・能登国に侵攻したが、末森城(すえもりじょう)で佐々成政を撃破した(末森城の戦い)。





逸話

〇利家は傾奇者(かぶきもの)で、短気でもあった。
三間半柄(約 6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣(ういじん)以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者(ぶへんしゃ または ぶへんもの)であったとのこと。
若年の頃は、派手な拵え(こしらえ)の槍を持って歩いたので、「又左衛門の槍」といって人々から避けられていたそうです。 「亜相公御夜話(あしょうこう おんやわ)」
利家は晩年になっても、多少ともカブキ傾向のある若者を愛したという。

〇元服前の小姓のとき、前田犬千代(前田利家のこと)として初陣した萱津の戦い(かやづのたたかい)では、合戦で目立つ様に、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持ち、首級ひとつを挙げる功を立てる。
信長は「肝(きも)に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛したといわれています。

〇ある時、女婿の宇喜多秀家(うきた ひでいえ)が利家の戦法を質(ただ)したところ、「先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」という信長流の戦い方を語ったという。

〇利家は、男性の平均身長が157cm程度の時代において、6尺(約182cm)を誇る類稀(たぐいまれ)なる恵まれた体格の持ち主だったとのこと(遺された利家の着物から推定6尺とされている)
顔も端整であったようで、非常に見栄えのいい武将であったと言われている。

〇利家は、家来を養えず困っている多くの大名に金を貸していた。
遺言においては「こちらから借金の催促はしてやるな。返せない奴の借金は、なかったことにしてやれ」と前田利長(まえだ としなが、前田利家の長男)に命じている事実が存在する。

〇秀吉側近(そっきん)の大野治長(おおの はるなが)は「御位も国数も大納言様(利家)は下なれども、お城にて人々用ひ(人々の尊信)は、五雙倍にも大納言様つよく候。これは第一御武辺者なり。さてまた太閤様(秀吉)御前よき故にても候由、お城にても道中にても、内府(家康)より人々あがまへ、我らまでも心いさみ申す」と語っています。
(訳:利家は、家康より官位も領国石高も下だが、彼は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、人望は利家のほうがはるかに大きい)。
利家は、晩年の秀吉に意見できる数少ない人物であったとのことです。