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磯野員昌 (いその かずまさ)




浅井家の家臣。

近江佐和山城主。





太平記英勇伝二十八 礒野丹波守定正(磯野員昌) 落合芳幾作画






磯野家は、員昌の父である員宗の代から佐和山城を本拠としていました。
父の死後、叔父が家督を継ぎ、その跡を員昌が継ぎます。

員昌は武勇に長けており、六角家との戦いで度々武功を重ねます。
員昌は信頼されて、合戦では浅井軍団の先鋒を任されるようになります。



元亀元年(1570年)の姉川の戦い(織田徳川連合軍 vs 浅井朝倉連合軍)では、員昌は織田軍に深く斬り込みます。
一時は織田信長の本陣近くにまで迫りました。

この員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残っています(浅井三代記)。

しかし、後ろに控えていた織田側の稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就らの援軍が織田本陣に到着。
そのあとに、朝倉軍を撃破した徳川家康軍の増援もあり、浅井側は総崩れとなります。

結果的に、織田徳川連合軍によって、浅井朝倉連合軍1,100余りを討ち取られて敗北。
戦場付近の「血原」や「血川」という地名は、往時の激戦振りを窺わせます。



姉川の戦いの後、浅井家の小谷城との陸路は織田軍により分断。
員昌の籠もる佐和山城は敵中に孤立する状態となっていました。

木下藤吉郎による「員昌に翻意あり」という流言を信じた浅井側が、佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめてしまいます。

そのため、員昌は、翌元亀2年(1571年)、佐和山城を攻撃された際に信長に降伏。

降伏後、員昌は旧領の佐和山城と引き換えに、近江高島郡を与えられている。

この高島1郡の支配は、「横山の木下藤吉郎、佐和山の丹羽長秀、安土の中川重政、長光寺の柴田勝家、永原の佐久間信盛、宇佐山の明智光秀」と同等という破格の待遇でした。

員昌の武勇は織田家でも認められていたと考えられています。