戦国時代の大名や武将、ゲーム等について紹介。

歴史を楽しむ!

赤井直正 (あかい なおまさ)




氷上郡(ひかみぐん)を中心に、丹波国(たんばのくに)で勢力を誇った豪族である。
通称は、悪右衛門(あくえもん)や「丹波の赤鬼」。

※氷上郡(ひかみぐん)
現在の兵庫県中東部付近の場所。

赤井家の次男であった直正は、赤井家の同族であり、黒井城に拠る荻野家の養子に入る。
荻野直正(おぎの なおまさ)を称した。





天文(てんぶん または てんもん)23年(1554年)、外叔父である荻野秋清を殺害して、黒井城(くろいじょう)を奪っています。
通称の「悪右衛門」は、このころから呼ばれたようである。

永禄(えいろく)元年(1558年)、天田郡(あまだぐん)の荒木尚雅を滅ぼすなど勢力拡大に努める。

永禄8年(1565年)には、三好長慶(みよし ながよし)死後の混乱を突いて、兄の仇である内藤宗勝(ないとう そうしょう)を攻め滅ぼしました。

翌永禄2年(1571年)、氷上郡(ひかみぐん)へ侵攻してきた山名祐豊(やまな すけとよ)を打ち破りる。
逆に、山名祐豊が治める此隅山城(このすみやまじょう)や竹田城(たけだじょう)を占拠。
山名祐豊は、織田信長に救援を頼んだことから、信長の丹波侵攻を招くこととなりました。

天正3年(1575年)、織田信長は明智光秀に対して、赤井直正討伐を名目にして、丹波攻略を命じた。
これに対し、直正は黒井城に籠って戦い、八上城(やかみじょう)の波多野秀治(はたの ひではる)の加勢もあって、光秀を敗走させた(黒井城の戦い)。

これ以降、丹波は京都を中心にして、畿内の支配を固めた織田氏の侵攻にさらされる。
直正ら赤井一族は、波多野家と結束して頑強に抵抗。
明智光秀率いる織田軍を何度も撃退することに成功。
直正は光秀軍を取り囲み、光秀は「もはやこれまで」と覚悟を決めることもあったといわれています。

この戦いの勝利により、織田軍に土をつけたことで、直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていきます。

「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」において、「名高キ武士」として徳川家康や長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)と共に、赤井直正の名が挙がっています。