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戦国クイズ 上級 人物編

戦国時代のクイズ 上級 人物編 (第51問から第60問)を掲載。

戦国時代における大名や武将など、「詳しい人のみぞ知る」と思う人物をクイズにしております。





 戦国クイズ 上級 人物編 第51問

大内義興と戦い、領地を広げて尼子家の全盛期を作ったことから、「謀聖」「謀将」と称された人物は誰?










答え : 尼子経久(あまごつねひさ)

〇もう少し詳しく解説
毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才と言われ、中国の三大謀将に数えられている。
家臣に対して非常に気を使う優しい人物であり、「塵塚物語(ちりづかものがたり)」は経久のことを「天性無欲正直の人」と評している。
ケチとも言えるほどの倹約家だったといわれている。



 戦国クイズ 上級 人物編 第52問

九州地方で勢力を拡大し、「肥前の熊」の異名をとった人物。
島津・有馬連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で敗死した戦国大名は誰?










答え : 龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

〇もう少し詳しく解説
少弐家を下剋上で倒し、大友家を破り、島津家と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称された。
沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)では、龍造寺軍は2万5千の大軍、島津軍は僅か1万未満と圧倒的な兵力差であった。
しかし、龍造寺軍は大軍の進行が不可能な隘路に誘い込まれて、島津家久軍と有馬勢から挟撃され敗北を喫した。
龍造寺方は多くの将兵を失い、大将の隆信も討ち取られた。



 戦国クイズ 上級 人物編 第53問

織田信長の次男。
徳川家康と同盟関係を結び、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と戦った人物は誰?










答え : 織田信雄(おだのぶかつ、のぶお)

〇もう少し詳しく解説
織田・徳川連合軍は長久手の戦いで羽柴秀吉に勝利した。
しかし、織田家の家臣が羽柴方へ寝返ったり、織田領土に羽柴軍が侵攻してきたため、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。
そのため、信雄を擁していた家康は秀吉と戦う大義名分を失って撤退することになった。



 戦国クイズ 上級 人物編 第54問

武田信玄や北条氏康との戦いに敗北したのち、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とした。
そして上杉家の家督と関東管領職を譲った戦国大名は誰?










答え : 上杉憲政(うえすぎのりまさ)

〇もう少し詳しく解説
上杉憲政は上野国の戦国大名であり、山内上杉家15代当主。
室町幕府の関東管領であった。
しかし、武田家や北条家との戦いに何度も敗れ、越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとに逃れた。
越後に入った憲政は長尾景虎を養子とし、関東管領職を譲渡した。
このとき、景虎に「上杉」の氏と自身の偏諱である憲政の「政」を下賜して上杉政虎と名乗らせた。
そして、上杉政虎は山内上杉家の家督の正式な後継者となった。



 戦国クイズ 上級 人物編 第55問

臨済宗の僧侶で、今川家の家臣であった人物。
今川義元の信頼は厚く、義元の右腕として家督相続に尽力した。
主君を補佐して内政や外交、軍事に従事し、今川家の全盛期を築き上げた武将は誰?










答え : 太原雪斎(たいげんせっさい)

〇もう少し詳しく解説
太原崇孚(たいげんそうふ)ともよばれている。
今川家の発展に大きく寄与したことから、「黒衣の宰相」「名補佐役」「軍師」などと評価されている。
「雪斎が生きていれば桶狭間の敗戦はなかったろう」とまでいわれる程、高く評価されている人物です。



 戦国クイズ 上級 人物編 第56問

長宗我部元親の四男で、長宗我部家の最後の当主。
関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川家に謝罪して許された。
しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収されて浪人となった人物は誰?










答え : 長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)

〇もう少し詳しく解説
浪人となったのち、豊臣方から故郷の土佐一国の贈与を条件に、旧臣と共に大坂城に入城。
大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが徳川方に敗北してしまう。
再起を図るために逃亡したが捕らえられた後、処刑された。



 戦国クイズ 上級 人物編 第57問

祖父は毛利元就で、父は毛利隆元。
関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった人物は誰?










答え : 毛利輝元(もうりてるもと)

〇もう少し詳しく解説
安芸の戦国大名である毛利家14代当主で、長州藩の藩祖。
父である隆元が急死したため、若くして毛利家の家督を継承。
祖父である元就や2人の叔父である吉川元春や小早川隆景らによる後見を受けた。
豊臣政権では五大老の一人であった。



 戦国クイズ 上級 人物編 第58問

武田家の家臣で武田四天王の一人。
武田四天王には、その人物を除くと馬場信房(馬場信春)、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)がいる。
武田の副将格として評された人物は誰?










答え : 内藤昌豊(ないとうまさとよ)

〇もう少し詳しく解説
武略に長けた武将で、武田信繁と共に武田の副将格として評された。
昌豊は信玄の代表的な戦争に全て参加し、常に武功を立てていた。
しかし、信玄からは一度として感状をもらうことが無かった。
このことについて「甲陽軍鑑」で、信玄は「修理亮(昌豊)ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と評している。
敢えて一通の感状も出さなかったという。



 戦国クイズ 上級 人物編 第59問

天正12年(1584年)、肥前の有馬家を救援し、龍造寺軍を迎えうつために島津家は出陣した。
島津軍の総大将として龍造寺軍と戦い、勝利をおさめた武将は誰?










答え : 島津家久(しまづいえひさ)

〇もう少し詳しく解説
島津軍は有馬軍と合わせても5千から8千。
龍造寺軍は1万8千から6万もの大軍(諸説あり)であった。
家久は龍造寺軍を沖田畷(おきたなわて)と呼ばれる狭い湿地帯に誘い込んだ。
釣り野伏せ(つりのぶせ)と呼ばれる島津得意の戦法で弓鉄砲を効果的に使用して龍造寺軍を混乱させた。
総大将の龍造寺隆信をはじめ、一門や重臣を含む多くの龍造寺勢を討ちとった。
この戦いは沖田畷の戦いとよばれる。



 戦国クイズ 上級 人物編 第60問

父である北条氏政と共に、後北条家の最大版図を築き上げた。
外交の失敗により、豊臣秀吉による小田原征伐を招いた。
後北条家の第5代当主は誰?










答え : 北条氏直(ほうじょううじなお)

〇もう少し詳しく解説
小田原城の籠城は1590年4月から3カ月に及んだ。
秀吉の大軍による小田原城の完全包囲や水軍による封鎖、支城が陥落し、重臣が秀吉に内応しようとした。
そのため、7月1日には和議を結ぶことを決意。
氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。
秀吉は氏直の申出について感じ入り、家康の婿であったこともあり助命され、謹慎生活を送った。
約1年後、秀吉と対面し正式に赦免。
河内及び関東において1万石を与えられ、豊臣家の大名として復活した。



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