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三方ヶ原の戦いの敗北から徳川家康が得たもの




天下統一を果たした徳川家康(とくがわ いえやす)。
徳川家康を天下人(てんかびと)とした戦いは関ヶ原(せきがはら)の戦いです。

軍学者の頼山陽(らい さんよう)によると、天下取りの決め手となったのは関ヶ原の戦いではない。
若き日の家康の戦いにあったと言っています。

※頼山陽(らい さんよう) 1781年1月21日~1832年10月16日。
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。



それが1572年の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いです。
徳川家康は当時31歳で、戦国最強と恐れられた武田信玄(たけだ しんげん)と直接対決した戦いです。

武田軍は約3万、対して徳川軍は約1万1千ほど。
戦の経験豊富な武田軍の前に数時間ほどで敗北します。
命からがら逃げ戻った家康。

兵力、経験ともに及ばない信玄に挑んだ理由とはなんだったのでしょうか?





徳川家康三方ヶ原戦役画像(とくがわいえやす みかたがはら せんえきがぞう)

顔をしかめて憔悴(しょうすい)したような表情に描かれています。
そこから「顰像(しかみぞう)」とも呼ばれています。

三方ヶ原の戦いで敗れた家康が絵師に描かれたとの伝承があります。
最近の説では江戸時代中期に描かれたと言われています。







1542年、徳川家康は現在の愛知県がある三河(みかわ)の松平家に生まれました。

当時の徳川家は西に織田家、東は今川(いまがわ)家と強大な勢力に囲まれていました。
弱小国の徳川家は今川家の傘下となっており、家康は8歳から今川家の人質となっていました。

家康は若いころから機会があれば三河を統治してみたいという思いを強く抱いていました。



そのような情勢の中で、徳川家康に転機が訪れます。
1560年、桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわ よしもと)が織田信長に討たれる出来事です。

家康はこれを機に三河に戻り独立して、三河の当主となります。
さらに今川家の領土であった現在の静岡県西部、遠江(とおとうみ)まで勢力を拡大します。

1570年、家康29歳の頃に浜松城を築城して本拠とします。
そして今川義元を討ち取った織田信長と同盟を締結。
信長の天下取りに積極的に協力していきます。



順調に勢力を拡大していた徳川家康に報せが届きます。
三河の隣国である武田信玄がこちらに向けて大規模な軍を動かしているとのこと。

1572年10月、武田信玄はおよそ3万もの軍勢で徳川家康の領土に軍を進めてきます。

このときの武田信玄は天下統一を目指していたふしがあります。
室町幕府(むろまちばくふ)の第15代将軍足利義昭(あしかが よしあき)と連携して、織田信長を討ち滅ぼそうとしていました。

信玄は織田信長の領土ではなく、信長の同盟者である徳川家康の領土へと侵攻します。
家康と戦わずに信長の領土に西進した場合、信玄は信長と家康にはさみうちにされてしまうからです。

信玄は統率力と人望により、数多の合戦(かっせん)にて勝利を重ねてきた名将です。
風林火山(ふうりんかざん)を旗印(はたじるし)とした武田軍は戦国最強と恐れられていました。





武田信玄の旗指物(はたさしもの)に記されたとされている。
※旗指物とは軍旗のこと。

軍旗に記されていた文字は「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」。





このときの武田信玄は52歳で、対する徳川家康は31歳でした。
兵力や合戦の経験の差は歴然。
戦う前において、徳川軍の勝利は難しいものだったのです。



武田信玄は軍を二手に分けて、それぞれ三河と遠江に進軍。
数日の間に侵攻途中の城を落として浜松城に接近します。

徳川家康は自ら3,000もの軍勢を率いて武田軍の偵察に出撃。
通常であれば、偵察に3,000もの兵を連れていくことはありません。
武田軍と小競り合い(こぜりあい)をして、武田軍の強さや戦いぶりを感じてみようとしていたのかもしれません。

家康の動きは武田軍に察知されていました。

武田信玄の息子、武田勝頼(たけだ かつより)の軍に見つかり、徳川軍はすぐさま浜松城に撤退します。
しかし、武田軍のしつような追撃にあい、追いつかれてしまいます。
家康はやっとの思いで城に逃げ帰ることができました。

武田信玄は徳川領に侵攻する前に、忍者や偵察を使って三河や遠江の領地をくまなく調査していました。

武田信玄の甲州流の軍法書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」に次のような記述があります。
「遠江と三河の絵図をもって険しい土地や河の流れなどすべての地形を知らべさせた。」

特に地形については絵図を描いて詳細に把握していたのです。

武田信玄は常日頃から情報を大事にしていました。
戦う前に相手を崩して合戦をする前に勝てる態勢をとることに努めていました。
他にも、様々な有力武将と出来る限り会う機会を作ることにしていました。

信玄の優秀な部分は様々な情報を立体的に組み立てて合戦に活用していた点です。



1572年12月、武田信玄軍は浜松城に近づいていきます。

浜松城にいた徳川家康は籠城(ろうじょう)することを決意しており、城の中で信玄軍を待ち構えていました。

しかし、信玄軍は浜松城まで7kmほど手前で方向転換。
浜松城を通り過ぎて西へ進軍していきました。

予想外の信玄軍の行動に家康は戸惑いつつ、その後の動きを見守ります。
信玄軍は三方ヶ原(みかたがはら)台地に登り、さらに北西に進んでいきました。

その報告を受け取った家康は、すぐに城を出て信玄軍を追いかけることを決意。
信玄軍の行く先には下りの細く険しい坂道しかないことを知っていたからです。
下りの坂道に入ったところで攻撃して有利な態勢で戦えば、信玄軍に勝利できると思ったのです。

三方ヶ原台地に登った家康軍が見たものは、整然と並んだ風林火山の旗印でした。
信玄軍は坂を下りる直前で反転して陣形を短時間で整えて、家康軍を待ち構えていたのです。

家康軍は、まんまと陽動作戦にひっかかり、城からおびき出されてしまったのです。



すべては信玄の策略でした。
信玄は自身と比べて合戦経験が少なく若い家康を侮ってはいませんでした。
詳細な地形の事前調査の結果、信玄は決戦の場を三方ヶ原台地に選んだものと思われます。





元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖

三方ヶ原の戦いの3枚揃錦絵

左側の絵を拡大

徳川左京大夫源家康(中央上、馬に乗って刀を振り上げている)
本多平八郎忠勝(中央左下、槍を構えている)


中央の絵を拡大

山縣三郎兵衛昌景(中央、馬に乗って槍をついている)


右側の絵を拡大

武田大膳大夫晴信入道信玄(中央下、白い馬に乗って采配を前方に向けている)





この合戦は戦う前から勝敗は決したようなものでした。

家康の戦いぶりが「武徳大成記(ぶとくたいせいき)」に記載されています。

「神君 歯を食いしばり あわを吹き 衆士を激励して 騎をかえして反撃(かえりうち)をたまうこと三四度 吾衆(わがしゅう)戦い疲れて支うべからず」

家康は必死になって家臣を叱咤(しった)激励して何度も立ち向かうも、信玄軍に反撃を受けて後退。
最後には、ほとんどの家臣たちは戦い疲れはててしまった。

2時間ほどの短い戦闘にて、家康軍は甚大な被害を被りました。
信玄軍の攻撃はすさまじく、家康軍の陣形は崩壊しつつありました。

家康は必死になって浜松城に逃げ帰りました。

完膚(かんぷ)なきまでに敗れた徳川家康。
しかし、この敗北がのちの家康という人物を作っていったのです。




実のところ、徳川家康は信玄軍と戦えば負ける確率はかなり高いと分かっていました。
城から出ていくことは、かなりのリスクがありました。

それでも家康には出陣しなければならない理由があったのです。

浜松城にこのまま籠城する選択もあったはずです。
武田信玄の陽動作戦が巧みだったとはいえ、なぜ家康は信玄軍を追いかけたのか。

家康には必ず信玄と戦わなければならない理由があったのです。



三方ヶ原の合戦直前の城内では、籠城の準備をおこなっていました。

この少し前、家康方の二俣(ふたまた)城を陥落させるのに信玄軍は2ヶ月間もかかりました。
家康は堅牢を誇る浜松城ならば、もっと長い期間、信玄軍を足止めできると考えていたのです。

このまま信玄軍が西に進むと織田信長が窮地になります。
信長からは、信玄軍を浜松付近で進軍を阻止せよ。という秘密指令がありました。
家康はそれを忠実に守ろうとします。

しかし、信玄軍は浜松城を無視して西に進んで行きました。
それを見た家康は激しく憤った(いきどおった)といわれています。

戦国時代では侵攻する途中にある城は必ず陥落させていくことが常識でした。
信玄に面目(めんぼく)をつぶされた形になった家康。
しかし信玄軍を追いかけて勝利することは困難でした。

このまま浜松城に籠城するか、それとも信玄軍を追いかけるか。
家康は悩みます。

家康は悩んだ末に信玄軍と合戦することを決意します。

家臣たちは家康と同様に信玄に対して悔しい思いを持っていましたが、合戦することを引き止めようとしました。
信玄が合戦慣れしているために、勝利することは難しいと考えていたのです。



「浜松御在城記(はままつございじょうき)」に記述があります。

敵、我城辺ヲ推テ通ルニ、城内ニ居ナカラ、出テ一当アテサランハ、甲斐ナク聞ユル。
縦軍ニ負ルトモ、一合戦スヘシ。

信玄軍が堂々と我が方の城を素通りしていくことを見逃して城に留まることは、情けないこと。
負けるかもしれないが、合戦すべきである。



このまま信玄軍を見逃せば、自分は笑い者になって家臣は離れていくかもしれない。

のちに三河武士は忠誠心がもっとも強いと言われました。
しかし当時の三河武士団は一枚岩ではありませんでした。

9年前の1563年、三河一向一揆では半分もの家臣たちが敵にまわった経緯がありました。
一揆を鎮圧した後、家康は裏切った家臣たちを許します。
しかし内心では、またいつ裏切られるかと人間不信になっていました。

信長の同盟者として、信玄軍を何もせずに領内を通過させることは出来ませんでした。
足止めせよ。という信長からの命令に背くことになってしまうからです。

ここで打って出なければ、戦国大名としては生きてはいけぬ。

名こそ惜しけれ(自分の名を汚すような恥ずかしいことはするな)。
家康の心中は、そのような精神だったのかもしれません。

家康は多くの家臣の反対を押しきって出撃命令を下したのです。



三方ヶ原台地に出撃した11,000の家康軍。
信玄軍は30,000もの軍勢で待ち構えていました。

信玄軍の陣形は魚鱗(ぎょりん)の陣。

※魚鱗の陣
中心が前方に張り出して両翼が後退した「△」の形を取る陣形。



家康軍は鶴が翼を広げたような陣形の鶴翼(かくよく)の陣。
少ない軍勢でも周囲を囲い込むことによって信玄軍をおさえこもうとしたと思われます。

※鶴翼の陣
両翼を前方に張り出した「V」の形を取る陣形。



午後4時に戦闘開始。

先に動いたのは家康軍でした。
魚鱗の陣の細い先頭部隊の切り崩しに成功します。

それを見た信玄軍はすぐに攻めてきた家康軍を側面から攻撃。
兵の少ない家康軍はたちまち陣形を崩されていきます。

信玄軍の攻勢に兵数の少ない家康軍は後退せざるを得なくなっていきました。

家康軍の敗北が決定的になると、家臣たちは家康の周囲を固めて退却させようとしました。
それを見た武田軍の追撃は、さらに勢いを増していきます。



「徳川実紀(とくがわじっき)」には次のように書かれています。

「ここで討死する」と言って、聞かない家康。
家臣の夏目吉信(なつめ よしのぶ)は無理やり家康を浜松城に向かわせました。
そして「我こそは総大将徳川家康なり」と叫び、身代わりとなって討死した。

他にもあります。

家臣の松井忠次(まつい ただつぐ)は家康の朱色の鎧が目立つという理由で、自分の鎧と交換。
家康の逃亡を手助けしたと伝えられています。

家臣たちは命をかけて家康を浜松城に逃がしたのです。




家臣たちのおかげで、家康は無事に浜松城に逃げ帰ることに成功。
その後、浜松城に籠城することを決意します。

しかし、信玄軍は城に攻めてくることはありませんでした。



三方ヶ原の戦いから2ヶ月後。

武田信玄は病死。
その結果、家康はかろうじて領土を守りきることができたのです。





武田信玄の最期を描いた月岡芳年(つきおか よしとし)の作画
虫の音を聴かんとす。との説明文あり。






のちに。

武田家の重臣である馬場信房(ばば のぶふさ)は「東照宮御実紀(とうしょうぐうごじっき)」に三方ヶ原の戦いのことを語っています。

徳川軍は皆我々の方を向いて死んでいた。
徳川軍は負け戦の中で逃げていく方向で討たれるのではなく、武田軍の方向を向いて討たれている家臣がかなり多くいた。

馬場信房は敵である家康の家臣たちを褒めたたえていたのです。



三方ヶ原の戦いは、総大将である家康の采配(さいはい)で多くの兵を失うことになりました。

負けることがわかっていても出陣を決断した家康の下で、家臣たちは結束を固めました。
のちに徳川四天王といわれた本多忠勝(ほんだ ただかつ)や榊原康政(さかきばら やすまさ)も戦いに参加していました。

このときに。
家康に忠誠を尽くしたと知られている三河武士団の基盤が確立したのです。



ある逸話があります。

豊臣秀吉が天下人になりつつあった頃。
「徳川殿の宝はなんでこざる?」と家康に聞きました。

家康は、
「書画調度ではなく、自分のために命を惜しまざる者がおります。これこそ、家康の第一の宝です」
と返答したとのことです。

家臣たちの支えが家康を天下人とする大きな力となったのです。



三河一向一揆では半分もの家臣たちが敵にまわりました。
一揆を鎮圧した後、家康は裏切った家臣たちを許します。
しかし内心では、またいつ裏切られるかと人間不信になっていました。

三方ヶ原の戦いでは、自分の命が助かったのは家臣たちのおかげでした。
家康は家臣あっての自分だという思いを強く持つきっかけとなりました。



武田信玄に戦いを挑んだということで、徳川家康の名声は全国にとどろきました。
家康は敗北したけれども、戦国最強とうたわれる武田信玄と戦うことで有名になったのです。

将来において天下人を狙える人物と考えると、大変貴重な経験を得たことになったのです。



のちに武田家が滅んだ後。

徳川家康は武田家の残った家臣の多くを徳川の家臣として取り込み、重用しました。
家康は武田家の軍略や兵法、家臣団を自軍に組み込んでいったのです。





時は流れて。

三方ヶ原の戦いからおよそ27年後。
関ヶ原(せきがはら)の戦いがおきます。





徳川家康が着用していた南蛮胴具足(なんばんどう ぐそく)
関ケ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされています。






東軍の徳川家康の味方部隊は大垣(おおがき)城に迫っていました。

大垣城には西軍の有力武将、石田三成(いしだ みつなり)がいました。
石田三成は家康が大垣城を攻撃するものと思っていました。

しかし徳川家康は大垣城を無視して、佐和山(さわやま)城を落とした後に大坂城に向かうとの噂を流します。
それを聞いた石田三成は城から出撃せざるを得なくなったのです。

関ヶ原の戦いは、三方ヶ原の戦いでの信玄の陽動作戦を家康が参考にしたのではと思います。





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