徳川家康の神格化と東照大権現
日光東照宮は、日本を代表する世界遺産の中でも有名な神社です。
1617年に徳川家康を祀る神社として、2代将軍徳川秀忠(とくがわ ひでただ)によって建立されました。
そのあと、3代将軍徳川家光(とくがわ いえみつ)によって大規模な改築が行われました。
きらびやかな彫刻がほどこされた陽明門をシンボルとする日光東照宮があります。
この中に、神として祀られているのが徳川家康(とくがわ いえやす)です。
その神の名は東照大権現(とうしょうだいごんげん)。
東照大権現とは、関東から日本中を明るく照らす神という意味です。
徳川家康画像(東照大権現像)
日本の天下統一を果たした徳川家康は、死後に神になることを望みました。
家康は徳川幕府の存続と日本の安泰を願いました。
この願いを託したのが、南光坊天海(なんこうぼう てんかい)でした。
天海は天台宗の高僧で、徳川家の重要な側近として知られています。
天海像(木村了琢作画、輪王寺蔵)
天海は家康を神として祀るだけでなく、東照大権現を存続と安泰のシンボルとして日本全国に定着させようとしました。
家康を神格化させようとしたのです。
その旗振り役として天海は活躍していきます。
元和(げんな)2年 西暦1616年。
天海は病に倒れた家康の枕元にいました。
死期を悟った家康は遺言を残します。
「わしが死んだら亡骸(なきがら)は久能山におさめよ。しかるのち一年後に日光にまつれ。そして日本全土の守り神になろう」
※家康の側近であった金地院崇伝(こんちいん すうでん)の本光国師日記(ほんこうこくしにっき)に上記記載あり
この遺言の数日後に家康は亡くなります。
享年75歳。
このとき、天海は80歳をこえていました。
家康が亡くなった時から、天海は家康を神格化することにまい進します。
最初に手をつけたことは、天海は家康の遺体をすぐに移動させることでした。
家康をたぐいまれなる神聖な神として祀られるためには、遺体を他人に見られるわけにはいきません。
天海は家康が亡くなった夜に雨が降りしきる中、家康の遺体を久能山に運び込んで埋葬しました。
ここまでは天海の思惑どおりに事がすすみました。
そのあと、家康をどのような神にするのかその神号をめぐって大論争がおこります。
天海と一緒に家康の枕元で遺言を聞いた側近の金地院崇伝と意見が対立してしまうのです。
崇伝が主張した神号は大明神(だいみょうじん)でした。
過去に大明神は源頼朝に与えられており、世間においてよく知られていた神号でした。
「神が主体で、仏は神が姿を変えたもの」という考え方に基づくものでした。
一方、天海が主張した神号は大権現(だいごんげん)でした。
大権現とは、天台宗に伝わる神仏習合(しんぶつしゅうごう)に基づく思想です。
こちらの考え方は大明神とは逆でした。
「仏が主体で、神は仏が姿を変えた存在である」という考え方に基づくものでした。
2代将軍である徳川秀忠は、最初は大明神に賛成していました。
日本の最高権力者である秀忠に対して、天海は大明神には反対であると強硬に主張。
あまりの強硬姿勢をとる天海に対して、「天海を島流しにすべし」と周囲から意見があがるほどでした。
天海は追いつめられていきました。
ところがその数日後、大勢は大逆転。
天海が主張した大権現が採用されることになりました。
大逆転して、天海の意見が採用された理由。
それは大明神という神号はあの天下人も名乗っていたからでした。
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)です。
秀吉は死後、豊国大明神(とよくにだいみょうじん)として祀られていたのです。
天海は滅亡した豊臣秀吉と同じ大明神になることは不吉であると主張します。
さらに、家康をたぐいまれな唯一無二の神として祀るには大権現でなければならないと改めて訴えました。
度重なる天海の説得に、将軍である秀忠もついに納得しました。
ついに幕府の意見は大権現で一致します。
家康の神号が大権現と決定して、およそ1年後。
日光東照宮に家康を東照大権現として祀りました。
家康を東の地から日本を照らし続ける唯一無二の神とすることに成功したのです。
天海の家康神格化の計画は、さらに続いていきました。
家康を東照大権現とする象徴として、日本全国に広めるために動きます。
江戸の街の鬼門にあたる場所に、東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)を建立します。
寛永寺
その境内に家康をまつる東照宮を設置。
人口が多い江戸の人々に東照大権現を身近に感じてもらおうとしたのです。
次は日本全国を目標としました。
地方の大名たちに、東照宮の設置を推奨していきます。
尾張、紀伊、水戸の御三家が東照宮を建立する際には、天海は場所の選定や完成の儀式を執り行うなど重要な役割を担います。
天海の呼びかけに応じて全国の大名が応じ、最盛期には700以上の東照宮ができたといわれています。
天海はさらに計画を押しすすめていきます。
家康の肖像画の正式名称は、東照大権現像。
家康が神となった姿が描かれています。
天海は全国の東照宮に、東照大権現像を祀るようにと指示します。
これにより、天海の家康神格化計画はなしとげられました。
天海は、徳川将軍家をいかに安定して存続していくかに尽力しました。
また、仏の教えに基づいて皆が救われる国造りを目指していきました。
家康と天海の考え方は一致していたのではないかと思われます。
天海は家康の遺言どおりに実行できたと言えるかもしれません。
日本中で神となった家康を身近に感じられるようになれば、幕府の統治も堅固になり、国家の安泰も続くはず。
その思いで家康神格化計画にまい進した天海。
家康の遺言は守られて、天海の知恵によって徳川幕府は260年の泰平の世を築くことができたのでした。