戦国武将人気ランキング
戦国時代には、個性あふれる魅力的な多くの武将たちがいました。
現代人はどの武将を好んでいるのか?
20位までの戦国武将をご紹介します。
※過去にテレビ放送された戦国武将人気ランキングを元に作成。
1位 織田信長(おだ のぶなが)
・天下統一まで目前のところで、家臣である明智光秀(あけち みつひで)の謀反(むほん)にて討たれた。
・変化を恐れず、積極的に新しいものを取り入れた。
新しいことに挑戦するパイオニア精神を持ちあわせていた。
・桶狭間(おけはざま)の戦いでは、織田軍 3,000 対 今川軍 25,000 という圧倒的不利な戦力差の中、今川義元(いまがわ よしもと)を撃破。
この戦いにより、織田信長の名は全国に知れ渡った。
・長篠(ながしの)の戦いで、当時最強といわれていた武田軍を徳川軍と協力して勝利した。
・戦国時代は兵士の大半は農民であった。
信長は、1年中戦うことができるプロの戦闘集団の軍隊を作った。
・織田軍は約 6m30cm もある長柄槍(ながえやり)を装備していた。
一般的な槍の長さと比較して2倍もの長さの違いがあり、その威力はすさまじく上からたたいた衝撃は1トン近い衝撃があったほど。
・鉄砲をいち早く取り入れて、鉄砲隊を組織した。
・自由に商売や取引ができる楽市(らくいち)や楽座(らくざ)を開始した。
・きらびやかな大型の天守をもつ安土(あづち)城にて、正月に挨拶にきた家臣たちを、自ら城の内部の案内をして拝観料を徴収していた。
拝観料は現在の価値で1万円ほどを徴収していた。
また、城をライトアップして、宣教師の一行を目で楽しませたと伝わっており、おもてなしの精神が現代に通じるところがある。
城の拝観料徴収やライトアップをすることは、当時において、初の試みであったものと推測されている。
2位 上杉謙信(うえすぎ けんしん)
・生涯の戦において、ほぼ負けなし。
戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世において、軍神や越後の龍と称されてたたえられている。
上杉謙信は、大将みずから敵陣に突っ込んでいった。それを見た家臣の士気は多いに高まり、勢いさかんになった。
・現在の新潟県である越後を治めており、武田信玄や織田信長と戦った。
・最強とうたわれる武田信玄とは、川中島で10年にわたり5度戦ったけれど、決着はつかなかった。
・破竹の勢いの織田軍を手取川(てどりがわ)の戦いで撃破。そのときに謙信は「信長は弱い」と語ったといわれている。
・鉄砲から部下を守るために、防具である車傘(くるまがさ)を開発した。
・戦国時代では、一汁一菜が日常であった。
上杉家では、戦の出陣前にとても豪華な食事を作って、部下の士気を高めた。
・武田信玄が塩不足で窮地におちいった時、謙信は塩を送ってあげた「敵に塩を送る」。
謙信は「我々の争いは武力の争いであって、生活必需品の争いではない」と言い、塩を適正価格で販売したといわれている。
・謙信の思いがこめられた言葉「第一義(だいいちぎ)」。私利私欲のためではなく、人の為、世の為を第一に考える。
「義」の精神を中心においていたといわれている。
3位 伊達政宗(だて まさむね)
・幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明。
隻眼となったことから、後世において、「独眼竜」の異名がある。
・18歳で伊達家を継ぎ、東北地方に勢力を拡大した。
・もう少し早くに生まれて、中央に勢力があったならば、天下統一できたほどの器の持ち主といわれている。
・普通、お寺は質素な建造物であるが、瑞巌寺(ずいがんじ)には黄金の部屋、金箔がはられた障壁画を造り、伊達家の強大な権力と力をアピールした。
・すぐれた外交戦略があり、ヨーロッパに慶長(けいちょう)遣欧使節団を派遣。
海を渡るために、全長約55m、総重量は500トンを超える巨大な木造船を造らせた(船名:サン・ファン・バウティスタ号)。
当時においては日本最大級の帆船であった。
ヨーロッパの食文化に刺激を受けて、日本で初めて鯨(くじら)の石焼のステーキを考案したといわれている。
・瑞巌寺(ずいがんじ)には、自分が座る場所の後ろに大きな窓(火頭窓 かとうまど)を作って、その窓から太陽が入るようにした。
まるでそこに座った人物に後光がさしているかのように感じさせる造りになっている。
・京の大名行列において、足軽にいたるまで全員、黒の甲冑(かっちゅう)と派手な装束(しょうぞく)で統一してパレードした。
それを見た京の人々は、おおいに驚いて評判となった。伊達者(だてしゃ、だてもの)の語源となったといわれている。
4位 真田信繁(さなだ のぶしげ)
・真田昌幸(さなだ まさゆき)の次男。
・真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。
・大阪冬の陣では、大坂城に出城(でじろ)である真田丸を造り、劣勢の中で寄せ手を撃退。初めてその武名を天下に知らしめることとなった。
・大阪夏の陣では、徳川家康をあと一歩まで追いつめる活躍をして、日本一の兵(ひのもといちのつわもの)とよばれた。
・10人の家臣からなる真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、伝承上の架空の人物である。その中には歴史的な由来を持つ人物もいる。
5位 徳川家康(とくがわ いえやす)
・大坂夏の陣により豊臣氏を滅ぼし、江戸幕府を開いた。
江戸時代は約260年も続き、戦争のない平和な時代だった。
・徳川の拠点である江戸までの途中に、超巨大な天守台をもつ駿府(すんぷ)城を造った。
豊臣方に「この城を落とすことは到底できない」と思わせるぐらいの巨大な城だった。
・湿地帯だった江戸を人の住める場所に改良して、現在の東京の礎を築いたといえる。
6位 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
・織田信長に仕えて、低い身分から大出世した人物。
・戦わずして勝利することを若いころから得意としていた。
・織田信長を本能寺で討った明智光秀を倒して、それから8年後に天下統一を果たした。
・弟である秀長(ひでなが)の才能を活かし、天下統一の補佐役とした。
戦国時代では兄弟で争うことが多く、珍しい例。
・黄金の城や巨大な駿府城を建てることにより、経済力、莫大な財力があることを周囲に知らしめた。
また、黄金の茶室や茶釜を造り、相手方に戦う意思をなくさせて戦わずして勝利した。
江戸にいた強大な力をもつ徳川家康の領土を囲むように黄金の城を造った。
それを見たであろう徳川家康は、そのあとは最後まで秀吉に戦をしかけずに従い続けた。
・秀吉は天下をとるために、信長の肖像画を書き換えた。
派手な信長像を地味な信長の肖像画にして、これからは秀吉の時代であるということを諸大名に知らしめたと推測される。
・寛容ともいえる態度で、敵対していた毛利氏や長宗我部氏、島津氏といった多くの大名を助命し、そのことにより、短期間で天下一統を成し遂げることができた。
・豊臣の名を与えて、他大名の反逆を封じた。
敵対していた戦国大名に対して、自分の名前である豊臣の姓を与えていった。
そして、その大名を家族のように丁重に扱うことにより、結果として、最終的に自分の地位を安泰にした。
その例に毛利家がある。
7位 武田信玄(たけだ しんげん)
・最強といえる騎馬軍団を率い、「甲斐の虎」と恐れられた猛将。
・勢力を拡大し続けていた織田信長は、精強な軍隊をもつ武田信玄と戦うことをためらった。
・山梨県の地形を変え、洪水から町を守った名君であり、土木王。
信玄堤(しんげんづつみ)とは、武田信玄が山梨県に20年から30年ほどをかけて、甲府盆地を守るために築いた堤防のこと。
領民は水害の被害を受けなくなったため、地元の人は今なお慕っている。
武田信玄は国造りをしっかり考えていた人である。
・三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでは、徳川家康に2時間ほどで圧勝。
徳川家康はこの敗戦で死の恐怖を味わい、生涯の教訓としたほどである。
・侵略戦争を人生の最期まで続けた。最期は陣中でなくなった。
・合戦で傷ついた武田の武将や兵士たちを湯に入れた。
戦国時代では、温泉に入ることは傷の治療であった。
8位 黒田官兵衛(くろだ かんべえ)
・黒田孝高(くろだ よしたか)とも呼ばれる。
・調略や外交、軍事的才能に優れており、戦績は57戦無敗を誇るほどの戦上手。
・豊臣秀吉が最も恐れた天才武将。
・豊臣秀吉のナンバー2として活躍。軍師として、天下取りに貢献した
・備中高松城の水攻めや中国大返しを指揮した。
・敵を説得して降伏させ、兵を損失しないようにすることを得意とした。
・本能寺で信長が討たれたとき、諸大名たちに「書状で信長は助かったと伝えた方がよい」と秀吉に助言。
そのおかげで、明智光秀は孤立して、諸大名たちの混乱をおさえることに成功した。
・秀吉を天下人にする過程で、数々のプロジェクトに関わり、成功させていた。
秀吉は「官兵衛に多くの領地を与えると、すぐに天下をとってしまうだろう」「優れた才能をもった官兵衛は自分を蹴落として、いずれ天下人になるのではないか?」と思うようになっていった。
優秀すぎるが故に、警戒される立場になってしまった。
秀吉は少し怪しくなると、その武将に切腹を命じる人物であった。
官兵衛は秀吉から警戒されていることに気づいて、自ら隠居して如水(じょすい)と名乗った。
如水(私は水のように、野望も何もありません)と表明した。
9位 明智光秀(あけち みつひで)
・天下統一まで目前の織田信長を京都本能寺で暗殺した。
・本能寺の変から13日後に、豊臣秀吉に討たれた。
明智光秀が天下をおさめていた期間があまりにも短いことから、三日天下(みっかてんか)といわれている。
・主君である信長を裏切ったために裏切り者と言われているが、地元民の京都府福知山の人々には、今なお慕われている。
地元民は明智光秀の遺骨を祀っている。
・妻である熙子(ひろこ)は、結婚前に疱瘡(ほうそう)をわずらって、顔に傷を負ってしまう。
熙子の父親は「顔の綺麗な妹を」と、光秀にすすめてきた。
光秀は「傷が残っていようが、姉である熙子さんを愛します」と言って、そのまま嫁にした。
また、愛妻家であったと伝えられている。
・光秀は信長に仕える当初の役割は、通訳係や礼儀作法を教える役だった。
尾張弁の信長と、室町幕府将軍であった足利義昭との間の通訳係をした。
・比叡山焼き討ちの際、信長の命令で比叡山のふもとにある西教寺(さいきょうじ)を焼き討ちした。
西教寺(さいきょうじ)を翌日訪問して、残ったお坊さんを探したり、焼け残った木材を探して仮のお堂を造ったと伝わっている。
その事から、信長の命令のため、仕方なく行ったものと推測される。
その後、3年かけて西教寺を再建。
西教寺の門には、自分の城である坂本城の総門を移築した。
10位 石田三成(いしだ みつなり)
・豊臣秀吉の奉行として活躍し、豊臣政権の五奉行のうちの一人となる。
頭がよく、秀吉の右腕として働き、官僚的な立場から豊臣政権の基盤を築いた。
・徳川家康を倒すために決起して関ヶ原の戦いで戦うが、大激戦を繰り広げて敗北。
逃亡中に捕縛され、京都の六条河原(ろくじょうがわら)で処刑された。
・1尺(いっしゃく)の長さを全国的に統一して、検地(けんち)における税金の不正をただした。
これにより、全国の大名から正確な年貢がおさめられるようになった
11位 加藤清正(かとう きよまさ)
・現代においても熊本を中心に、清正公さん(せいしょうこうさん または せいしょこさん)と呼ばれて親しまれているほどに人気がある。
・豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで戦功のあった 「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」 の一人である。
・朝鮮出兵で虎を退治したといわれたほどの猛将。
・難攻不落の熊本城を造った。
熊本城は、上に行くほど反り返しがはげしい20mほどもある高石垣(たかいしがき)であり、清正流石垣(きよまさりゅう いしがき)ともいわれる。
震災にも耐えられる丈夫な土台で、石垣の隙間に小さな石を丁寧に詰めていた。
西郷隆盛(さいごう たかもり)も熊本城を落とすことができなかったほどの堅城。
他にも、名古屋城や江戸城の築城にも関わった築城の名手である。
・熊本城は、籠城(ろうじょう)に長期間耐えることが出来るようにと「食べる」ことができる城である。
畳には乾燥した蓮(はす)や芋をいれ、壁の中には干したかんぴょうをいれていた。
矢は干しわらびで結んだ。
城の敷地内には銀杏(ぎんなん)がなるイチョウの木を植えた。熊本城は別名、銀杏城ともいわれている。
12位 直江兼続(なおえ かねつぐ)
・上杉景勝の家老をつとめる。
・上杉家の領土が4分の1になっても主君を見捨てず、また家臣を減らすことに反対。
自らは質素な暮らしをしながら、豊かな国造りを目標に精進していった。
・豊臣秀吉から「家臣にならないか?」と誘われたが、「主君は上杉景勝のみ」と拒絶。上杉家に忠誠を誓い続けた。
・兜の前立て(まえだて)の「愛」は、Loveの「愛」の意味ではなく、愛染明王(あいぜんみょうおう)の「愛」である。
愛染明王は目が3つ、手が6本あり、愛を司る神(戦に勝つ神)として上杉家が信仰していた。
・兜に「愛」という文字をかかげて戦ったことが人気となっており、愛染明王の化身として戦ったものである。
・妻は正室だけで、側室をおかなかった。戦国時代では珍しい例である。
13位 前田慶次(まえだ けいじ)
・前田利益(まえだ とします)とも呼ばれている。
・穀蔵院飄戸斎(こくぞういん ひょっとこさい)、穀蔵院忽之斎(こくぞういん ひょつとさい)、龍砕軒不便斎(りゅうさいけん ふべんさい)という、お遊びな別名ももっている。
・上杉景勝に仕えた。
・派手な衣装を着て、権力に屈しない傾奇者(かぶきもの)として有名。
・天下人の豊臣秀吉に対して頭を下げずに褒められたことがある。
ある日、評判の傾奇者を見たかった豊臣秀吉から「登城しろ」と言われた。
普通は正装をしていくものだが、虎柄の派手な衣装で登場した。
自分の主君以外には頭を下げたくないため、顔を横に向けて、ちょんまげだけを前を向くようにしてお辞儀をした。
本来なら切腹を命じられてもしょうがない状況。
しかし、秀吉は許し、今後はどこでも傾いてよいとお墨付きをもらったほど。
このことにより、本物の傾奇者であると世間に周知された。
14位 浅井長政(あざい ながまさ)
・北近江(現在の滋賀県北部)を治めていた。
・織田信長の妹であるお市の方(おいちのかた)と結婚して、織田信長と同盟を結ぶ。
お市の方は、戦国一の美女であり、聡明だったといわれている。
・娘には豊臣秀吉の妻である茶々(ちゃちゃ)、お初(はつ)、徳川家光の母であるお江(ごう)がいる。
・浅井家と古くから同盟していた朝倉家に対して、織田信長は軍を侵攻させた。
朝倉家を助けるため、織田信長を裏切って朝倉家に加勢したため、信長軍は撤退した。
・のちの織田軍との戦いに敗れて自害した。
・家臣や領地の民をとても大事にしていた武将である。
米が不作のときは、領民のために年貢を少なくしたりした。
・城に籠城して自害するときに、家臣への手紙の中に「謝し難い(感謝しきれないほどありがたい)」と残している。
その手紙は「忠義の家臣である」との証明書となり、次の主君を探すときに大変有利になる。
このことから、最期まで家臣のことを思いやっていたことが分かる。
15位 毛利元就(もうり もとなり)
・たった一代で中国地方を治めた大大名。
・用意周到かつ合理的な策略、危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。
・軍略や政略、謀略など、あらゆる手段を使い、一代のうちに一国人領主(こくじん りょうしゅ)から、六ケ国を支配する太守へとのし上がった。
・元就の知略や戦略を織田信長は恐れた。
・海賊の当主と毛利の一族を結婚させて、海賊を仲間にした。
・一族の結束こそ重要であるとした「三本の矢(さんぼんのや)」が有名。
・厳島(いつくしま)の戦いで陶晴賢(すえはるかた)を破り、勢力拡大の発端をつくった。
2万 vs 4千の絶対的不利な戦いで勝利。
海賊を仲間にすることが勝利につながったと言われている。
16位 前田利家(まえだ としいえ)
・加賀100万石の礎を築いた。
・槍の名人で「槍の又左」の異名がある。
・巨大な槍を武器として、長さは約6.3mほどもあった。
その槍を見た敵は、戦わずに逃げていったほど。
・当時の戦場において、槍は主力武器。
槍は突くものというイメージがあるが、実際は突くことも出来るが、たたくための武器。
上から下や、横にふるうことで、突くよりもはるかに大きなダメージを与えることができ、鎧や兜がへこむほどの威力があった。
・織田信長のもとで、数々の敵の大将首をとった。
・戦場にそろばんをもっていくほどに節約家であり、経済感覚にすぐれていた。
兵糧や金銀をみずから計算していたほどで、家臣にまかせっきりにしなかった。
・金箔をほどこした黄金の甲冑を着ていた。
・武力と経済感覚を兼ね備えていた人物である。
17位 井伊直政(いい なおまさ)
・徳川家康の天下取りを支えた功臣。
現在でも滋賀県彦根市では、街の発展に尽くした人物として毎年祭典が行われている。
・全身を赤色で統一し、戦場で目立っていた。
そのため、戦場で功績をあげたことが誰の目にも明らかだった。
また、井伊軍は全員、赤色で統一していた。
・戦国武将はみんな目立ちたがり屋。その中でも、特に目立っていた。
・「井伊の赤鬼」と恐れられた猛将。
・異例の若さで徳川四天王になる。
・関ヶ原の戦いにおいて、逃走する敵を追撃中に、鉄砲で撃たれた傷が原因で死去する。
・ひこにゃんの兜は井伊直政の兜をモチーフにしている。
・小牧長久手(こまき ながくて)の戦いや関ヶ原の戦いにおいて、先陣を切った。
戦場においては、先陣を切ること自体が手柄である。
18位 真田昌幸(さなだ まさゆき)
・真田家やその家臣を守るために、織田や徳川、豊臣と、いくつもの大勢力に味方した。
「表裏比興の者(ひょうり ひきょうのもの」とよばれた人物で、知謀や策略、武勇にすぐれていた。
・真田信之(兄)と真田幸村(弟)の父親。
・武田信玄の側近として使えていた。
関ヶ原の戦いでは、東軍には真田信之、西軍には真田昌幸と信繁(幸村)と別れて、それぞれ味方。
東軍西軍どちらが勝利しても、真田家は存続するように計らった。
・真田家に伝わる言葉「死ぬまで生きよ」。生に固執するということだそうです。
19位 竹中半兵衛(たけなか はんべえ)
竹中重治(たけなか しげはる)ともよばれている。
・豊臣秀吉の軍師として活躍。
・織田信長は竹中半兵衛を直属の家臣として欲しがったほどの才の持ち主。
・頭の良さで成り上がった頭脳派武将。
・竹中半兵衛19歳の頃、稲葉山(いなばやま)城(現在の岐阜城)をたった16人で、一夜のうちに落城させた。
通常、城攻めは1万人以上の軍勢で、1年以上かけて行うことが常識。
岐阜城は山の上にあり、難攻不落と言われていた。
・竹中半兵衛たち16人は、どのように城をおとしたのか?
当時、竹中半兵衛の弟は人質として城に入っていた。
竹中半兵衛は弟に病気のふりをしてくれと頼んだ。
竹中半兵衛たち16人は、弟の見舞いという理由で厳重な警備を突破。
弟の見舞いの品ということにして、籠や荷車に大量の武器や甲冑(かっちゅう)を積み込んで運び入れた。
城内奥深くに入り込んだ竹中半兵衛たち16人は持ちこんだ武具を装備。
城内のいたる所にて「敵襲、敵襲。大勢の敵が攻め込んできたぞ!」と大声で触れ回った。
城主斎藤龍興(さいとう たつおき)やその家臣たちは突然のことに大混乱。一目散に城外に逃げ散っていった。
この功績により、全国に竹中半兵衛の名は広まったと言われています。
20位 上杉景勝(うえすぎ かげかつ)
・上杉謙信に認められて養子となり後継者となる。
・寡黙な人物だった。
・豊臣政権下では五大老(ごたいろう)の一人となる。
・家臣には直江兼続、前田慶次などがいた。
・豊臣秀吉から信頼されて会津の領主となる。
・関ヶ原の戦いの後、領地の大半を没収されてしまう。
会津120万石から米沢30万石に移されて、石高は4分の1になる。
しかし、家臣たちは上杉景勝についていった。
謙信以来の義を重んじる心、家臣を気遣う心があった。