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本能寺の変に至るまでの明智光秀の気持ちを探る




1570年代の中頃。
織田政権は畿内(きない)をほぼ完全に掌握。
毛利氏が支配している中国地方に進出しようとしていました。

※畿内(きない または きだい)
京(きょう)に近い以下の5ヶ国を指す呼称として用いられる。
五畿内(ごきない)とも呼ばれる。

山城国(やましろのくに) 京都府京都市以南
大和国(やまとのくに)  奈良県
摂津国(せっつのくに)  大阪府北中部及び兵庫県神戸市須磨区以東
河内国(かわちのくに)  大阪府東部
和泉国(いずみのくに)  大阪府南西部



織田信長(おだ のぶなが)は中国地方の毛利氏攻略のため、明智光秀(あけち みつひで)に対して融和路線(ゆうわろせん)を命じていた。
つまり、話し合いによる外交によって信長の天下統一を目指していた。





明智光秀像 本徳寺(ほんとくじ)所蔵

本徳寺は大阪府岸和田市にある臨済宗(りんざいしゅう)の寺院。





同時期に、信長は羽柴秀吉(はしば ひでよし)に対して、武力によって毛利氏を攻略するように命じていた。
羽柴秀吉は、のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)のことです。

武力路線、戦争によって毛利氏を屈服させようとしていたのです。



信長は融和路線と武力路線の2つの方針を同時期に行い、毛利氏を制圧しようとしていました。
現代社会においても、目的達成のためにさまざまな手段を同時進行で実行していくことはよくあることです。



最終的に、信長は羽柴秀吉の武力路線を選択。
光秀の融和路線は信長によって捨てられてしまうことになりました。

さらに信長は光秀に対して、羽柴秀吉の毛利侵攻を助力するように命じます。
成り上がり者でライバル関係になりつつある羽柴秀吉を助力することは、光秀にとって耐えがたい命令だったと思います。



長年にわたり毛利氏との友好関係を構築してきた光秀の苦労は水の泡と消えました。
光秀は無念だったに違いありません。

毛利氏の重臣に対しては約束を反故(ほご)にした形となり、光秀の面目(めんぼく)は、まるつぶれの形となりました。
※反故(ほご) (約束や契約などを)ないものとする。役に立たないものにする。
※面目(めんぼく) 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。世間からの評価。



他にも、光秀は失脚させられる可能性もありました。

1580年に、幼少の頃より信長に仕えていた佐久間信盛(さくま のぶもり)・信栄(のぶひで)親子が追放されていました。
信長は役に立たない家臣に対しては、長年仕えている重臣に対しても容赦(ようしゃ)はしないのです。

もしかしたら信長は光秀に対して、今回の毛利氏に対する外交の不調法(ぶちょうほう)を非難したのかもしれません。
※不調法(ぶちょうほう) 行き届かず、手際の悪いこと。



いろいろな事が重なり、光秀は信長に対して激しい怒りをおぼえた可能性があります。
自分が生き残るためには織田信長を打倒するしかないと考え、本能寺の変につながったのかもしれません。



このような記述があります。

1581年4月1日、明智光秀は信長から京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)の運営責任者を任された。
織田信長が京都で行った大規模な観兵式のことで軍事パレードのことです。

この大任を任された光秀は、
「瓦礫(がれき)のように落ちぶれ果てていた自分を召しだし、そのうえ莫大(ばくだい)な人数を預けられた。
一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公(ごほうこう)を忘れてはならない」

※御奉公(ごほうこう) 主家からの恩に対して家臣が奉仕すること。忠義であること。

という信長への感謝の文を書いています。



また、翌年1582年1月の茶会において「床の間に信長自筆の書を掛ける」と茶会の記録として記載があります。「宗及茶湯日記他会記」
光秀は信長を崇敬している様子がうかがえます。



その約5ヶ月後の1582年6月21日早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を急襲。
信長を自害に追いこみました。





「真書太閤記(しんしょたいこうき) 本能寺焼討之図」 渡辺延一 作画 

真書太閤記は江戸後期の実録風読物で、豊臣秀吉の通俗的な一代記を記載。





この光秀の急な心変わりは、いまだに歴史上の謎です。
光秀ほどの人物が感情的、衝動的に謀反をおこしたとは考えにくいところであります。

本能寺の変は謎が多く、また歴史家の興味をひきつけてやまない事件です。





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