山中幸盛 (やまなか ゆきもり) 1545年9月20日?~1578年8月20日
尼子家の家臣。
山陰地方の武将。
別名は鹿助(しかのすけ)、幼名は甚次郎(じんじろう)。
山中幸盛像 島根県安来(やすぎ)市立歴史資料館 所蔵
所持していた武器は、総長約264cm(刃長172.0cm、反り3.0cm、茎長 92.0cm)の石州大太刀(石州和貞 作)を使用していました。
自分の背よりかなり長い武器です。
敵方は近寄る前に斬られてしまいます。
腕力が人並み外れて強くないと扱えなかったのではと思います。
優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。
また、34歳の生涯で66以上の首級を挙げたとのこと。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名。
このセリフ、耳に残ります。
主家再興のために忠義を尽くす家臣には惚れてしまいます。
そんなかっこいい山中 鹿介を紹介します。
尼子氏滅亡~尼子氏再興を順に追っていきたいとおもいます。
尼子氏滅亡
永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利家当主である毛利元就は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍。
毛利氏は周防国と長門国、石見国を勢力下に治めており、中国地方の一大勢力となっていた。
一方の尼子氏は、当主であった尼子晴久が永禄3年12月24日(1561年1月9日)に急死。
晴久の嫡男・義久が跡を継いだが、外交政策の失敗等もあり勢力が衰えつつあった。
毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていきます。
そして、永禄5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構えて、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化。
永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城へ攻撃を開始。
この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置しており、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝で、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。
同年9月21日(1563年10月8日)、尼子家は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大将とした軍を派遣し、山中 鹿介 幸盛もこれに従軍。
戦いの結果は、残念ながら毛利軍が勝利。
尼子軍は月山富田城へ撤退(白鹿城の戦い)。
退却の際、軍の後陣に控えていた山中 鹿介 幸盛は、約200の少数の兵を率いて殿(しんがり)を担当し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退。
敵の首を7つ討ち取った。
毛利方の戦上手である吉川元春・小早川隆景の両軍を少数兵で殿担当して撃退。
さすが、山陰の麒麟児の名に恥じない働きぶり!
しかし、その後、尼子家の白鹿城は同年10月中旬頃に落城。
永禄7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関で戦い、幸盛もこれに参戦。
このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に務めていた。
尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れてしまい、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。
こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、月山富田城は完全に孤立化していきます。
永禄8年4月(1565年5月)、ついに毛利軍は尼子氏の居城・月山富田城へ攻撃を開始。
毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると、城下の麦を刈り取って兵糧攻めの作戦をとった。
補給路を断たれている月山富田城はきついです。
援軍がくる予定がないのでジリ貧です。
同年4月17日(1565年5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。
幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退。
吉川元春は毛利家で戦上手で知られた武将です。
これを追い払って、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取っています。
永禄8年4月28日(1565年5月27日)、毛利軍は月山富田城を落とすことができずに、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退。
同年9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。
この戦いで幸盛は品川将員を一騎討ちで討ち取っている(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。
永禄9年5月24日(1565年6月11日)、毛利軍は再度月山富田城へ総攻撃を行う。
しかし、城を落とすことが出来なった。
永禄9年11月21日(1566年1月1日)、落城はしないものの、城内の兵糧が欠乏して将兵の逃亡者も相次いでしまいました。
これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出て、同月28日(1566年1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。
義久ら尼子3兄弟は、円明寺へ連行され幽閉される。
幸盛は随従を願い出たが許されず(悲しいですね、主君に従えないのは・・・)、出雲大社で主君と別れた。
その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなります。
山中幸盛の花押。天正6年7月8日 遠藤勘介宛書状にて記載あり
尼子家再興を目指す 永禄11年(1568年 24歳)から 元亀2年(1571年 27歳)まで
尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。
山中 鹿介 幸盛は主君に随従を願い出たが許されませんでした。
いわゆるぷータロー状態です。
永禄11年(1568年)、山中 鹿介 幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・尼子勝久を還俗させ、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがいました。
永禄12年4月(1569年5月)に機会が訪れました。
毛利元就が大友宗麟を攻撃するため、北九州へ大軍を派遣。
挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、その毛利家の隙を狙って出雲国へ侵攻を開始。
このとき、山中 鹿介 幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊でした。
山名一門の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた山名祐豊であったが、領国であった備後・伯耆・因幡国を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられています。
しかし、毛利家から要請を受けた織田信長によって山名家の領内を攻められて、尼子家への支援はままならなかった。
永禄12年6月23日(1569年8月6日)、山中 幸盛は丹後・但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り、島根半島に上陸して、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠。
山中 幸盛らがここで再興の激を飛ばす(今でいう手紙)と、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結、5日の内に3000余りの軍勢になったという。
そして同月下旬、山中 鹿介 幸盛ら尼子再興軍は、多賀元竜が籠もる新山城(真山城)を攻略してそこを居城とする。
山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大。
尼子家再興できそうな雰囲気です。
永禄12年7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかります(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。
この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり、城内より投降者がでるなど尼子方が優勢。
しかし、同じ頃、石見国で別活動していた尼子再興軍が毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止、同軍の救援に向う。
山中 幸盛は、この石見の毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破(原手合戦)。
その後、出雲国内において16の城を攻略。
その勢力を6,000余りにまで拡大させた。
永禄12年10月15日(1569年11月23日)、尼子家の反乱以外にも大内家の反乱などもあり、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた毛利元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため九州から軍を撤収させることを決定。
永禄13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するために居城・吉田郡山城より大軍を率い出陣。
毛利軍は北上して出雲国へ入国。
尼子方の諸城を次々と攻略しながら、月山富田城救援のために陣を進めていった。
一方の尼子再興軍は、尼子家に反旗を翻した隠岐為清の反乱(戦力は400人から1000人、美保関の合戦とも呼ばれる)などによって貴重な兵力と時間を浪費してしまった。
この尼子家中での内紛は痛恨事でした。
尼子再興軍は、出雲国の拠点である尼子家の元本城である月山富田城をいまだ攻略することができないでいました。
そのために、尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため、布部山(現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備えた。
同年2月14日(1570年3月20日)、幸盛ら尼子再興軍は、この布部山の地で毛利軍と戦い、敗北(布部山の戦い)。
山中 鹿介 幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に新山城へ帰還している。
一軍の将として、山中 鹿介 幸盛はすばらしいですね。
殿としての戦は、兵卒を統率できずに軍が崩壊してしまうことがほとんどなので、もっとも難しいとされています。
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同年6月(1570年7月)、さきほどの布部山の敗戦により出雲の尼子再興軍の勢力は、居城である新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめらる。
同年9月5日(1570年10月4日)、安芸国で毛利元就が重病におちいり、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還すると状況が一変。
山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、好機とみた尼子再興軍は再びその勢力を盛り返していく。
尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆国の境にある城を次々と奪還。
戦力の少ない毛利軍の隙をついて、再び月山富田城へ迫った。
また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北部に満願寺城を建設。
吉川元春が籠もる毛利軍の居城・手崎城(平田城)へ攻め込むなど、尼子再興軍はその攻勢を強めていく。
さらに、このとき、隠岐国の国人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功。
日本海側の制海権も取得しつつあった。
尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。
だがしかし、元亀元年10年6月(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、この状況を打開するため、直属の水軍部隊・児玉就英を出雲へ派遣。
出雲国で苦戦する毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪取しようと計画します。
この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、同年10月下旬頃には十神山城落城、同年12月には満願寺城が落城するなど、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していく。
そして、元亀2年8月20日(1971年9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城。
籠城していた当主である勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている。
同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた山中 幸盛も敗れ、無念にも吉川元春に捕らえられてしまいます。
山中 幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後、隙をついて脱出。
山中 幸盛がトイレの穴から糞まみれになりながら逃げたのはこのときみたいです(笑)。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、再興運動は失敗に終わってしまう。
山中幸盛像「月百姿」 月岡芳年にて作画 ウォルターズ美術館所蔵
再度、尼子家再興を目指す 元亀3年(1572年 28歳)から天正4年(1576年 32歳)まで
京都に逃れた山中 鹿介 幸盛らは、織田信長に謁し、中国攻めの先方となることを誓ったとされています。
尼子遺臣団は尼子家再興の志を秘めて、山名氏の軍勢と共に山名氏に謀叛した武田高信と闘い、因幡国を転戦、甑山城での戦いにて勝利を得る(鳥取のたのも崩れ)。
そして鳥取城に篭った武田高信の軍5,000を1,000の兵で攻め、攻略。
「攻者3倍の原則」(第一次大戦中のドイツ軍研究によると、攻める場合には敵の3倍の兵力が必要、逆に敵の3分の1の兵力で守りを固めれば、攻める敵と五分五分の戦いができる)からまったく外れている無理な戦いですね。兵卒の消耗も大きかったと思われます。
その後、鳥取城に入った山名家が毛利家についてしまったため、毛利家に鳥取城を奪われることとなってしまいました。
山名家はころころと味方を変えて変節極まりなし。
尼子再興軍は翻弄されてしまいます。
天正元年(1573年)12月には、再び因幡へ攻め入り、10日の間に15城を攻略するなど尼子再興軍は勢力を拡大。
天正2年(1574年)頃には因幡国の諸城を攻略し、織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・私都城を確保。
東因幡一円を支配し、一時的に尼子家を再興することに成功。
尼子再興軍の勢いを感じます。
天正3年(1575年)3月、但馬の山名祐豊が、毛利家と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を締結する事件が発生。
この頃、山陰は勢力地図が頻繁に変わっていました。
その1つの要因として、山名家が、毛利と織田の二大勢力に翻弄されていたからです。
かつて毛利家と敵対し、尼子再興軍を支援していた味方の山名祐豊だったが、この頃は織田信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあったため、山名祐豊にとっても毛利氏と手を組むことは重要なことでした。
また、同年には、支援を受けていた織田方の浦上宗景が、宇喜多直家との抗争(天神山城の戦い)に敗れ、居城の天神山城を奪われるなどして勢力が衰退。
こうして尼子再興軍は因幡で孤立、毛利軍により諸城を次々と攻略されてしまいます。
天正3年(1575年)10月、毛利軍の吉川元春らが亀井茲矩の籠もる私都城を攻略し、古くからの尼子遺臣であった横道兄弟・森脇久仍・牛尾大炊助らが毛利氏に降るという事態が発生。
尼子再興軍の勢力が著しく衰退。
因幡における尼子再興軍の拠点は若桜鬼ヶ城一城のみとなったが、毛利軍と織田軍の緊張が高まったことなどにより、毛利軍の撃退にはなんとか成功。
しかしその後、尼子再興軍は織田軍の支援を得ることができなくなったことや、因幡の毛利軍から攻撃を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月、山中 鹿介 幸盛ら尼子再興軍は力及ばず若桜鬼ヶ城を退去し、因幡から撤退。
山中 鹿介 幸盛は織田信長を頼って京都へ再度向かい、今後は織田軍のもとで尼子氏再興を目指すことになります。
月山富田城跡地の太鼓壇公園にある山中鹿介幸盛の銅像。幸盛没後400年を記念して、1978年に建立
三度目の正直、尼子家再興を目指す 天正4年(1576年 32歳)から天正6年(1578年 34歳)まで
天正4年(1576年)、山中 鹿介 幸盛ら尼子再興軍は、当時丹波に出動していた明智光秀の軍に加わりました。
但馬の八木城攻撃や、丹波の籾井城攻撃に参加します。
天正5年(1577年)10月には、織田家嫡子の織田信忠に従い、松永久秀が篭城する信貴山城攻略に参加(信貴山城の戦い)。
このとき山中 鹿介 幸盛は、河内片岡城にて、松永久秀の部将の河合将監を討ち取っています。
武勇健在。山中 鹿介 幸盛、ここにありですね。
織田信長の命令を受けて、羽柴秀吉が播磨国へ進軍を開始すると、尼子再興軍もその攻撃に参加することとなります。
秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、尼子勝久・幸盛ら尼子主従は上月城に籠もり、備前・美作・播磨の国境の守備と美作国方面の調略を開始します。
このあたりは、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも描かれています。
このとき、かつて強大を誇った尼子家の名で兵卒の募集をかけたが、3,000の兵のみしか集まらなかったことに、山中 幸盛はうなだれていました。
心中いかばかりだったのでしょうか、残念です。
天正6年(1578年)2月、播磨国の有力大名である三木城の別所長治が信長に叛旗を翻す事件が発生。
毛利軍はこれを好機ととらえて、吉川元春・小早川隆景らが30,000以上の軍勢を率いて播磨に攻め込みます。
同年4月、尼子家が籠もる3,000の兵力しかない上月城を包囲。
毛利軍が上月城を包囲した、という知らせを受けた秀吉は、荒木村重らとともに軍勢を率いて上月城の救援に向かいます。
しかし、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、高倉山合戦で毛利軍に敗北したこともあって、兵を撤退。
上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われてしまったといえます。
このとき、織田・毛利家の戦線における最重要拠点は、三木城へと移っており、両軍にとって上月城の戦略的価値は半ば失われていました。
その結果として、上月城は孤立無援となり、兵糧も底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、同年7月5日、尼子主従はやむなく毛利軍に降伏(上月城の戦い)。
「軍師官兵衛」では、上月城を救うように再三豊臣秀吉が織田信長に懇願しているシーンがありました。
しかし、織田信長に却下されていました・・・。
尼子家の降伏の条件として、主君である尼子勝久は切腹を命ぜられてしまいました。
また、山中 幸盛は生け捕りとなり、備後国鞆の浦に陣取る毛利輝元の下へ護送されることとなりました。
しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて卑怯にも謀殺されました。
山中 鹿介 幸盛を生かしておくことは、毛利家にとって禍根を残すためだったといわれています。
尼子家に最後まで忠義を尽くし、また比類ない強さを誇った山中 幸盛。
ちょっと切ない終わり方です。
でも、その生き方には大変感銘を覚えます。
山中 幸盛の死をもって、以後、尼子家再興活動は衰退していきました。