戦国時代の大名や武将、ゲーム等について紹介。

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豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし) 1537年3月17日~1598年9月18日




豊臣秀吉像(狩野光信筆)







戦国時代でもっとも興味のある人は豊臣秀吉です。
秀吉について、いろいろ調べていこうと思います。

まずは、姓名の「羽柴」についてです。

豊臣秀吉で有名ですが、もともとは木下氏を苗字として、後に羽柴氏に改めたそうです。
「羽柴」の由来は、織田家の重臣である丹羽長秀と柴田勝家にあやかり、丹羽の「羽」と柴田の「柴」を1字ずつもらってつけたというのが定説であるが、確たる典拠はないとのこと。

ドラマなどでは、織田家の重臣に媚びるために1字ずつもらうように描かれていてちょっと面白いところです。



豊臣秀吉の旗印 千生り瓢箪







あとはなんと言っても、百姓から天下人へとなりあがったのは戦国時代でただ一人、秀吉だけです。その生涯は「戦国一の出世頭」と評されています。
現代でいうと、どこぞの中小企業にアルバイトで入社して、総理大臣になったような感じでしょうか。



豊臣秀吉は三英傑の1人に数えられています。
他の2人は、織田信長と徳川家康です。





人たらしと度胸



秀吉の最大の長所は、他人からとても好かれるということだと思います。
NHK大河ドラマ役の竹中直人は秀吉役にぴったりだと思います。

「軍師官兵衛」にも出ていますね。はまり役だと個人的に思っています。
今後の活躍を楽しみにしている俳優の一人です。



秀吉は人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられています。
元斉藤家家臣であった竹中半兵衛は、信長の直臣は辞退するけれども、秀吉の家臣ならば喜んでなりますと返答したとのことです。
まぁ、私も信長の家臣にはちょっとなりたくないですが(笑)。



黒田官兵衛もドラマ上では、秀吉様のためならば命も惜しまずという姿勢で描かれています。
上記の類まれな優れた軍師に好かれたということは、人間としてとても魅力があったと思われます。



また、度量の大きさでも知られています。
九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀(はいとう)を渡したり、小田原征伐で遅参した伊達政宗に佩刀を渡して石垣山の崖上で二人きりになったとのことです。

両名とも秀吉の度量に気を呑まれて斬りつけることは出来なかったとのことです。



また、小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、秀吉と戦をしたばかりの気がたっている数万の徳川兵の中で、酒を交わしながら秀吉との翌日の拝謁の打ち合わせをしたとのことです。

度胸もありますね~。たいしたものです。





中国大返し



天正10年6月(西暦1582年6月-7月)において、備中高松城の戦い(織田と毛利との戦い)の最中であった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知った後、速やかに毛利との講和を取りまとめ、主君の仇である明智光秀を討つために京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。

備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 kmを踏破した日本史上屈指の大強行軍として知られています。

ちなみに、この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。

まず200Kmを10日間で走りきったとのことなので、1日20Kmですね。
それを10日連続なのですごいと思います。
ドラマなどでは、途中の地元農民が炊き出しなどをして、走っている兵隊におにぎりを渡したりしていた記憶があります。

このあまりにもはやい敵対勢力の到着に、明智光秀は予定が狂ったと言われています。
武田信玄でいう「疾(と)きこと風の如く」を実践しているかと思います。
明智光秀は十分な戦争準備も出来ないまま、秀吉との戦いに望まざるを得なかったのかも知れないです。





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墨俣の一夜城



織田信長の家臣であった秀吉は、1561年(永禄4年)または、1566年(永禄9年)において、織田家による当時斉藤家が支配していた美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたことを言う。

これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論があるとのこと。



ドラマでは、墨俣城は、主に秀吉の家臣であった蜂須賀正勝や木曽川沿いに勢力のあった川並衆の前野長康らと協力して、秀吉が木曽川を利用して建築資材である丸太などを運搬して、一夜にして城を建造したように描かれています。

秀吉配下の少人数の家臣で斉藤家を撃退しつつ、城を築造しているシーンが描かれていました。

建造後は、「信長様の援軍はまだ到着なされないのか」と秀吉は半泣きしながら防戦していたシーンを覚えています(なんやかやで、ナイスなタイミングで信長の大軍勢で到着して、斉藤家をけちらしていました)。

歴史小説を読んでいたときは、川を利用して一夜で城(砦)を建造してしまうなんて、なんて秀吉は賢いんだぁと当時小説などを見て思っていました。





墨俣の一夜城について、軍記物「絵本太閤記」では次のように描かれています。



「絵本太閤記」冒頭の挿絵 木下秀吉像







信長の命令で、まず最初に佐久間信盛、次に柴田勝家が墨俣城の築城を試みるが斉藤家の奇襲にあい、やむなく失敗。

そこで、秀吉は信長に7日のうちに完成すると言上し、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら砦城の建造準備を行い、6月中旬の雨で戦闘中断したのをきっかけに、材木を組み立てて一夜にして築城を完成。
馬出し・柵・逆茂木を備えた龍に似たる長城とのこと。

清洲の信長に築城報告して、金銀を褒美として賜ったと表現されています。

秀吉、有能ですね。織田家中において出世街道まっしぐらな感じです。





金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れ



元亀元年(1570年)における織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつのことを言います。
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦。

織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃中に、古くから同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家が突如裏切ります。

挟撃(はさまれて攻撃されてしまう)の危機に陥ったため、木下藤吉郎(秀吉)と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛説に疑問あり)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦いのこと。

ドラマでは、信長の妹であり浅井長政に嫁いでいたお市の方が、両端をひもで結んだ小豆袋を信長に送って長政の裏切りを知らせたと言う逸話(両端をひもで縛っているので、挟み撃ちされているという暗示)が記憶にとても残っています。

俗説というのが有力みたいです。

織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は非常に統率のとれたものであり、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めたとのこと。





余談ですが、この退却戦は大日本帝国陸軍でも撤退戦の手本とされたそうです。

1945年8月大東亜戦争の最中において、進攻するソ連軍機械化歩兵師団を前にして、駐蒙軍参謀の1人辻田新太郎少佐は隷下の響師団(独立混成第2旅団)の将兵に対して、

「我々は駐蒙軍の後衛である。後衛は古来武人の名誉とされた。
前衛には本体の支援があるが、後衛にはないからである。
戦国の昔、元亀元年の織田信長越前撤退にあたり、諸将逡巡する中、木下藤吉郎は進んで殿軍を引き受け見事にその任を全うした。
世にこれを金ヶ崎の殿軍と称揚した。
我々も殿軍を見事に勤め上げ、音に響いた響師団の名を辱めないようにしようではないか。」

と訓示したとのこと。

辻田は響師団を指揮して、よくソ連軍の侵攻を遅らせ、4万の在留日本人の後送を援護したとのこと。
その時代においても、有名だった退却戦だったようです。

退却戦は大変難しいとされるところを被害最小限におさえた今回の退却戦はあっぱれ!
秀吉の戦上手、指揮のたくみさを物語っています。





石垣山一夜城



石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれています。

豊臣秀吉が1590年の小田原征伐の際に、小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。





石垣山一夜城からの小田原城







築城の際に小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たしたといわれています(一夜城の名もそれに由来)。

築城に約3~4万人を動員し、80日で構築されたとのこと。ものすごい急ピッチで作成された城ですね。

秀吉はこの城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えています。
北条氏側は茶会の盛大さを見ていて、籠城側(北条氏)はもちろん贅沢はできないのでかなり羨ましがったようです。

これでは、籠城側は長く持ちこたえられないですよね。秀吉の心理戦、見事です。