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斎藤道三 (さいとう どうさん) 1494年?~1556年5月28日




美濃の戦国大名。
斎藤家の初代当主。





斎藤道三像 常在寺所蔵




斎藤 道三は、長井規秀から斎藤利政(さいとうとしまさ)、次に斎藤道三と改名しています。
下克上(げこくじょう)大名の典型であり、僧侶から油商人を経て、美濃の戦国大名にまで成り上がった人物だとされています。

「美濃の蝮(まむし)」の異名をもっています。
なにかすごい異名です。
謀略が得意という斎藤 道三にぴったりです。








僧侶から美濃守護代になるまで



斎藤 道三は、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となりました。
その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房(後の斎藤 道三)も還俗して、松波庄五郎または松波庄九郎と名乗りました。

油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎(後の斎藤 道三)は、油商人となり山崎屋を称しました。
庄五郎は油売りの行商として才能があり、評判になっていました。
「美濃国諸旧記」によると、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種のパフォーマンスを見せるというもので、美濃で評判になっていました。

油売りの行商で大成功した庄五郎。
ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から、「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われました。



それから、一念発起して油売りの行商をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったといわれています。

武士になりたいと思った庄五郎は、以前学友だった美濃常在寺の日護房を改名した日運を頼って、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘の家臣となることに成功。
庄五郎は、長井家家臣西村家の家名をついで、西村勘九郎正利(後の斎藤 道三)を称しました。
才能がある武将だったのでしょう。
順調に武将になることができました。

勘九郎は、その武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至りました。

頼芸が兄政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年(1527年)8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献。
頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策、享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害、長井新九郎規秀(後の斎藤 道三)を名乗りました。

油売りの行商であった斎藤 道三を家臣にしてくれた旧恩ある長井長弘の除去を画策して、最後は死に追いやってしまうのは戦国時代の習いとはいえ、非情な行いですね。
このあたりの行動が「美濃の蝮(まむし)」と呼ばれる理由でしょうか。

武将としての才能、野心、謀略の才が飛びぬけていることが分かります。



この頃、越前へ追いやった政頼の子である土岐頼純(政頼は既に死去の可能性あり)が反撃の機会を窺っていました。
天文4年(1535年)には、主君である頼芸とともに頼純と激突、朝倉氏や六角氏が加担したことにより戦火は美濃全土へと広がっていきました。

天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(後の斎藤 道三)と名乗りました。
これらの略歴には、斎藤 道三の父である新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高いとのことです。





斎藤道三像 「過去城州太守道三居士」と記載あり






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美濃国主になるまで



天文10年(1541年)、利政(後の斎藤 道三)は、主君である頼芸の弟、土岐頼満を謀略をもって毒殺。
頼芸は、肉親を殺害されたことによる憎しみや利政への恐れから、利政との関係が悪化していき、次第に対立していきます。

一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)、利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放。事実上の美濃国主となりました。



織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放されて朝倉孝景の庇護を受けていた頼純(政頼は既に死去の可能性あり)と連携を結ぶと、両者は土岐氏の美濃復辟を名分として、朝倉氏と織田氏の援助を得て美濃へ侵攻。
その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純(政頼は既に死去の可能性あり)は革手城に復帰。



天文16年(1547年)9月には、この好機を逃さず、織田信秀は大規模な稲葉山城攻めを仕掛けました。
織田信秀は尾張国中から兵を集め、美濃へ侵入。
これを知った斎藤 道三は、稲葉山城に籠城します。

織田信秀は、道中の建物家屋などを放火して回り、9月22日には、斎藤 道三の居城、稲葉山城山麓の村々も焼き払って町口にまで迫りました。
しかし、申の刻(およそ午後4時ごろ)になったので一旦引き上げることにし、織田方が兵を半分ほど引いたところに、斎藤 道三は織田方を攻撃。
織田方は守備が整わず、信秀の弟織田信康や信長の家老青山信昌などが討ち死に、逃走中に木曽川で溺れ死んだものを含めて5,000人の大損害となりました。

籠城戦で、織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだこの戦いは、加納口の戦いと呼ばれています。
斎藤 道三は大将としての器、才覚もありますね。軍師としての才能もあるようです。



一方、頼芸と連携を結んでいた頼純は同年11月に病死。
この情勢下において、利政は織田信秀と和睦。
外交にて美濃国主という地位を安定化させています。

また、天文17年(1548年)に利政の娘、帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせました。
帰蝶を信長に嫁がせた後に、正徳寺(現在の愛知県一宮市(旧尾西市)冨田)で会見した際、斎藤 道三は、「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させて正装で訪れたことに大変驚いたとのことです。

利政は信長の将来を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになる」と述べたと『信長公記』にあります。
このくだりは有名です。織田信長はやはりただの「うつけ」ではありません。

この和睦により、織田家の後援を受けて、利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親を壊滅させました。
さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放、美濃を完全に平定、掌握しました。





隠居、その後



天文23年(1554年)、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲りました。
常在寺で剃髪入道を遂げて、道三と号し、鷺山城に隠居。

道三は、義龍より、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛、義龍の廃嫡を考えていたとされています。
道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵します。

残念ながら、道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対して、2,500の兵の道三は、長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに、衆寡敵せず戦死。

享年63歳。



道三は義龍を「無能」と評していたけれども、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したといわれています。
老いたために、子の斎藤義龍の才能を見抜けなかったのかもしれません。
自分の子供を見る場合は、目が曇ってしまうのでしょうか。
斎藤 道三らしからぬ失策です。

また、戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を信長に渡したということです。
ちなみにその後、信長は遺言書どおりに美濃を平定しています。

信長は斎藤 道三を慕っていたふうにドラマや小説で描かれていることが多いです。

最後の最後で道三は失敗してしまいました。
でも、「美濃の蝮」と呼ばれたその生涯はあっぱれなものがあります。