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蒲生氏郷(がもう うじさと) 1556年~1595年3月17日




近江国(おうみのくに)日野の大名である六角家(ろっかくけ)の重臣である蒲生賢秀(がもう かたひで)の三男として生まれる。

織田信長との争いで六角家は滅亡。
蒲生家は鶴千代(蒲生氏郷の幼名)を人質に差し出して織田信長に臣従(しんじゅう)します。

※臣従(しんじゅう)
臣下として主君につき従うこと。また、その人。

鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者(ただもの)にては有るべからず。我婿にせん」
(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)

と言い、自身の次女を娶(めと)らせる約束をしたという。 「蒲生氏郷記」





蒲生氏郷






織田信長は将来、蒲生氏郷は良将になるであろうと初見で見抜いていたようです。

氏郷は人質としてではなく、信長の小姓(こしょう)として仕えます。

※小姓(こしょう)
武士の職の一つで、武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う。

織田信長は目をかけて、一流の文武両道の武将に育て上げます。




14歳で初陣(ういじん)を飾り、敵の首級を挙げる。

※初陣(ういじん)
初めて戦場に出ること。また、その戦い。



初陣から帰還した後、人物を高く評価されて織田信長の娘と結婚します。
これでようやく、織田家の人質としての役割は終わり、正式に織田家の家臣となります。


領地として近江日野を与えられて、近江日野城の主となります。





蒲生氏郷は父と共に、織田家の重臣、柴田勝家(しばた かついえ)の与力(よりき)となる。

※与力(よりき)
より大きな大名に加勢として附属させられた武将のこと

朝倉や浅井(あざい)、伊勢長島の一向一揆、武田勝頼(たけだ かつより)と戦い、織田家にて武功を重ねた。



本能寺の変にて、織田信長が討たれてしまいます。

豊臣秀吉の時代となり、秀吉の家臣として近江日野から伊勢松ヶ島に領地替えとなる。
北には敵対関係にあった織田信雄(おだ のぶかつ)、領内では反秀吉勢力があり統治するには難しい場所だった。





その後は、小田原攻めの恩賞として、会津黒川に領地替えとなる。
北には伊達家、南には徳川家と油断ならない大名たちに囲まれている場所でした。


「辺鄙(へんぴ)に棄(すて)られたれば、何事(なにごと)か仕出すべき志(こころざし)の空(むな)しく成たる」
(広い領土を手に入れても、片田舎では何もする気がおきない)

と蒲生氏郷は言ったそうです。 「名将言行録」から抜粋





会津黒川への領地替えで42万石まで加増されたけれども、豊臣政権の中枢から遠ざけるための事実上の左遷だったようです。

豊臣秀吉は氏郷のことを将来脅かす存在になると警戒していたことをうかがわせます。


隣国の伊達や徳川に対抗するため、他大名に勘当(かんどう)された武将や、過去に敵対関係にあった武将を積極的に採用。
蒲生家は軍事力を増強します。





1595年、体調が悪化。
今でいう直腸癌であったと推測されています。

伏見の蒲生屋敷において、病死。
享年40歳。







逸話



蒲生氏郷は家臣を大切にしたそうです。

近江日野にいたあるとき、家臣を自宅に呼び、酒や食事をふるまいます。
蒸し風呂(蒸気浴)を家臣にすすめて、氏郷自身は外で火加減を調整していたとのことです。
さらに家臣の体を洗い流してあげたりしたそうです。

家臣は感動して、氏郷のために喜んで働いたそうです。
蒲生家内では「蒲生風呂」とよんだそうです。





氏郷は茶湯(ちゃのゆ)に深い理解がありました。
千利休(せんのりきゅう)に師事し、利休七哲(りきゅうしちてつ)の一人(筆頭)にまで数えられています。

「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」
(文武二つの道に秀でた日本に二人といない武将)

と千利休から高く評されています。 「備前老人物語(びぜんろうじんものがたり)」





褒美だけ与えても、情がなければうまくいかない。
情だけで、褒美がなくてもいけない。
実利と情はどちらも必要である。

蒲生氏郷  「名将言行録(めいしょうげんこうろく)」から抜粋