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明智光秀 (あけち みつひで) 1528年~1582年7月2日





織田信長の重臣。

十兵衛や惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と呼ばれています。
また、キンカ頭とも呼ばれています。
織田信長がドラマなどで呼んでいたりしますね。

日本史において、謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で大変有名です。





明智光秀像(本徳寺蔵)







本姓は源氏で、のちに朝廷より惟任の姓を賜っています。
家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。
朝廷とのつながりが深い武将といえます。

愛妻家としても知られており、継室である煕子が存命中は、ただ1人の側室も置かなかったと言われています。
明智光秀の三女に、細川忠興の正室・珠(洗礼名:ガラシャ)がいます。

内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれており、今現在においても、領国(近江国滋賀郡や丹波一国)であった各地で明智光秀を祀っています。





明智光秀像(坂本城址公園)







また、諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人でした。

光秀自身が鉄砲の名手で、明智軍は織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれています。



武将として、慈悲深い一面を持ちあわせていました。

西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死してしまいました。
光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進。
他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されています。

家臣へ細やかな心遣いのできる武将で、家臣から慕われていたようです。





朝廷や織田信長との関係



清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれています。
生まれた場所は、岐阜県可児市明智の明智城が有力とされています。

通説によると、光秀は美濃国の守護土岐氏の一族で、美濃の国主となった斎藤道三に仕えます。

弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で、斎藤道三に味方したため、義龍に明智城を攻められて、一族が離散したとされています。
その後、母方の若狭武田氏を頼って、のち越前国の朝倉義景に仕えたといわれています。

若いうちから、明智一家が路頭に迷ってしまう波乱の人生の開始ですね。
苦労人です。



永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって襲殺されました。

足利義輝の弟義昭が、姉婿である若狭国守護武田義統のもとに逃れ、さらに朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つことになり、義昭の接待役を命じられたといわれています。
義昭が上洛を期待しても朝倉義景は動かず、そこで義昭は斎藤家から美濃を奪取した織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように、光秀を通じて要請しました。

織田信長とはこれによって知り合いとなります。





織田信長の家臣となる



永禄12年(1569年)4月頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)・丹羽長秀・中川重政と共に、織田家支配下の京都や周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行います。

義昭と信長が対立し始めると、元亀2年(1571年)頃に暇願いを義昭に出すが不許可となってしまいます。
同年、比叡山焼き討ちで中心実行部隊として武功を上げて、近江国の滋賀郡(約5万石)を与えられます。

天正元年2月の今堅田城の戦い(織田信長軍と室町幕府第15代将軍足利義昭軍の戦い)をきっかけに、事実上、義昭と袂を別って信長の直臣となりました。





同年(1573年)、坂本城を自ら築いて居城としました。
坂本城(さかもとじょう)は、琵琶湖に面する平城で、近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城址公園内)にあります。

坂本城は、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの「日本史」に、「近江国の大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山(安土城のこと)に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と記載されています。

城造りの才もありますね。





天正3年(1575年)に、朝廷から惟任(これとう)の賜姓、従五位下、日向守に任官し、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)となります。

石山本願寺(浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)と織田信長との戦い)や、信長に背いた荒木村重と松永久秀を攻めるなど、近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略を担当して、天正7年(1579年)までにこれを平定しています。
この功績によって、これまでの近江国滋賀郡に加え丹波一国(約29万石)を与えられ、計34万石を領するまでに至りました。
京に繋がる街道の中で、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことから、明智 光秀は、織田家にあって重要な地位にあったことが伺えます。

丹波一国拝領と同時に、丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶等、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられました。
これら与力の所領を合わせると240万石ほどになり、近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」と呼ぶ者もいます。



天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任されています。

武将として、多方面に有能です。
実力主義である織田家中において、出世頭であり、主だった家臣に名を連ねています。





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本能寺の変



信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば、天下は信長のものになると思われる情勢でした。
また、織田家の有力武将を各地へ多くの兵力を派遣していたため、近国の信長周辺の軍勢は手薄でした。

この好機を逃さず、明智 光秀は、天正10年(1582年)6月2日(西暦6月21日)早朝、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、桂川を渡って京に入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言。
主君信長討伐の意を告げたといわれています。

重臣にも信長を討つことを直前まで秘匿し、「森蘭丸から使いがあり、信長さまが明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」としていました。
亀岡城出発後の決行数時間前という直前に、重臣たちに事の次第を打ち明けています。

「本城惣右衛門覚書」によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったと言われています。
信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたらしいです。





本能寺焼討之図







本能寺の変当日、二手に分かれた光秀軍は、信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲。
光秀軍1万3000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて屋敷に火を放ち自害しました。
しかし、光秀軍は信長の死体を発見できませんでした。

その後、二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取りました。

代表的な下克上(げこくじょう)の1つとされています。



織田信長から認められていた光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていません。
光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎の1つであります。
本能寺の変の動機について、詳しく調べてみると面白いと思います。





明智 光秀の天下取り、開始



光秀は京都を押さえると、信長・信忠父子の残党追捕を行いました。

光秀は、6月4日までに近江をほぼ平定。
6月5日には、安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して、自分の家臣や味方に与えたりしました。
6月7日には、安土において、勅使の吉田兼和(兼見)と面会し、6月8日に安土を発って京都に帰還しました。

光秀と仲がよく、味方するだろうと思っていた細川幽斎・忠興親子は、信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて織田信孝に二心の無いことを示しました。
また、光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して、光秀の誘いを拒絶・義絶します。

同じく極めて親しい間柄であった大和一国に封じられていた筒井順慶は、光秀が率いる畿内方面軍の中では光秀に次ぐ勢力がありました。
光秀から味方につくように誘われると、順慶は去就に迷います。

伝承では、順慶は光秀に乞われて洞ヶ峠まで出陣しながら、光秀に加勢することを逡巡、合戦が始まっても形勢を窺うばかりで兵を動かさなかったということです。
二大勢力(明智軍と秀吉軍)が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」といいますが、ここからきています。

主君を倒した同僚に対して、味方をする人はほとんどいないですよね。
このあたりは、光秀の人気のなさがうかがえます。



本能寺の変を知り、毛利家と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる天王山の麓山崎で、新政権を整える間もなく迎え撃つことになりました(山崎の戦い)。
現在においても、スポーツなどで「天王山」と言われることがありますが、それはここからきています。

光秀は、予想を越える秀吉軍の進軍の速さに対して、態勢を十分に整えられず、決戦に臨むこととなってしまいます。
決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千に対して、明智軍1万7千。
兵力において、明智軍はかなり不利な状況です。

しかし、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではありませんでした。
また、羽柴軍の主力は、備中高松城の戦いからの「中国大返し」で疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合体した諸勢の活躍に期待する他はない苦しい状況でした。

歴史研究家において、羽柴秀吉配下の黒田官兵衛孝高が山崎の要衝である天王山を占拠、戦術的に大勢を定めた時点で勝敗が決したとの見方があります。

また、別の見方では、本来、明智勢は小泉川の後方に陣取り、天王山と淀川の隘路を進撃する細くなった秀吉軍を包み込んで包囲殲滅できるはずが、秀吉軍の淀川沿いに指向して決戦を挑む秀吉勢の勢いをとめることができず、光秀は敗北したとされています。

秀吉は「山崎のこと、ひとつにかかって秀吉一個の覚悟にあり」と後に語っています。

智将と呼ばれた光秀らしからぬ敗北でした。



決戦当日は、序盤は一進一退だったが、秀吉別働部隊の側面奇襲などもあり、光秀軍は動揺して崩壊。
全面的敗走となりました。

光秀は、戦線後方の勝竜寺城に退却を余儀なくされてしまいます。

同日深夜、勝竜寺城を密かに脱出して、居城坂本城を目指して落ち延びる途中、本経寺付近の竹薮で、落ち武者狩り(鎧や刀などを売るため、逃走中の敗戦武将を殺すこと)の百姓中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝わっています。
竹槍で深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれています。

あまりにもはやい光秀の没落であったために、「三日天下」といわれています。





明智光秀とその一族の墓(西教寺)