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明智秀満 (あけち ひでみつ) 1536年?~1582年7月4日





織田家家臣である明智光秀の重臣。

明智光春や満春の名でも知られています。
左馬助(左馬之助)の通称でも有名。

明智光秀配下として、その活躍が認められ、天正6年(1578年)頃に光秀の娘を妻に迎えています。
その後に明智姓を名乗るようになりました。





太平記英勇伝四十九 明智左馬助光春(落合芳幾 作画)






坂本城において籠城



天正10年(1582年)、明智光秀が織田信長を討った本能寺の変において、先鋒となって京都の本能寺を襲撃。

羽柴秀吉との山崎の戦いでは、光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦います。
しかし、衆寡敵せず敗北して、坂本城に入城。

秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考えます。
それらの名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろしました。

「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ。

しばらくの後、直政と秀政が現れて、
「目録の通り、確かに相違ござらぬ。
しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」
と返すと、

秀満は、
「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。
吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。
お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して光秀に死出の山でお渡ししたく思う。
この事は御心得あれ」
と返事し、堀秀政と直政らも納得したと伝わっています(川角太閤記)。

後世において、天下の名物を残した秀満の見識は賞賛されています。



最後の夜に、秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子や自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされています。

享年は47歳。

佩用していたとされる刀は「明智拵」として現在に伝わっています。
刀身は無銘であり、簡素な拵ながらこの時代の実用の打刀様式を伝える数少ない品として、貴重な歴史資料とされています(東京国立博物館蔵)。





本能寺の変 決行前日



光秀が本能寺の変を計画した際に、秀満に実行すべきか否かを質問した逸話が「備前老人物語」に伝わっています。

光秀は信長を討つ事を迷い、秀満を呼び寄せて相談した。

秀満は、
「殿の上(信長)様へのお恨みはさもありなんと思います。
しかし気持ちを穏やかにお持ち頂ければ、遺恨も無くなりましょう。
都に近い丹波と、近江の坂本を拝領なされ、上様からは過分の取り立てを受け、冥加にかなうところでございます。
少しの恨みを思い捨てないで逆心を抱けば、天命の尽きる事明白です。
どうか思いとどまり下さい」
と諌めた。

光秀はその諫言を受け入れてひとまずその日は過ぎた。



その翌日に、光秀は4人の家老に信長討伐の是非を尋ねていた。
しかし、4人とも秀満と同じ意見を述べて反対する。

再度、光秀は秀満を呼び
「昨日申した事、年寄どもに密かに相談したが、その意見、皆そなたと同じであった。
それゆえ思いとどまる事にした。左様心得よ」
と答えた。

秀満は、顔をしかめて声を荒げながら、
「それがし1人の口なら如何様にもなりましょう。
ですが年寄4人に打ち明けたとなれば、その口を止めるのは難しくございます。
殿が上様を恨まれるように、かの年寄らがもしも殿をお恨みに申す事ができた時、天罰は逃れられません。
それが是であれ非であれ、思い通りに事をなしましょう。
明日に移せば一大事になりましょう」
と告げた。

秀満は、これほどの秘密を年寄にまで漏らした光秀の軽率な行為がいずれ信長にも知られて禍になるから、立ち上がるしかないと述べたのである。

なお、この話は事変の前日に行なわれ、秀満が決起の手立てを定め、光秀は秀満に背中を押される形で本能寺襲撃を決意したと伝わっています。





明智左馬助の湖水渡り



明智左馬助の湖水渡り 新撰太閤記(歌川豊宣 作画)






琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。

光秀の敗死を知った秀満は坂本に引き揚げようとしたが、大津の打出の浜で敵に遭遇してしまいます。
窮地に陥った秀満は琵琶湖に馬を引き入れると浮いたり沈んだりして泳がせ、自分は馬の尻の所に下がって手縄を鞍の後輪に取り付けて、湖水を渡った。

敵が唖然とする中、こうして秀満は無事に坂本に帰り着いたといわれています。





入江長兵衛に対する最後の助言



坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中でも逸話がある。

坂本城に一番乗りしようとした武士に入江長兵衛という者がいました。

秀満は長兵衛と知己があり、
「入江殿とお見受けする。
この城も我が命も今日限り。
末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」
と声をかけた。

長兵衛は「何事であろう」と尋ねます。

秀満は、
「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易いが、勇士の志に免じてそれはやめよう。
我は若年の時より、戦場に臨むごとに攻めれば一番乗り、退却の時は殿を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。
つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。
その結果はどうであろう。
天命窮まったのが今日の我である。
生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局はかくの如くである。
入江殿も我が身を見るがよい。
貴殿もまた我の如くになるであろう。
武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」
と述べた(武家事紀)。

今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいものと、秀満は言いたかったのである。
そして秀満は話を聞いてくれた選別として黄金300両の入った革袋を投げ与えた。

秀満の死後、長兵衛は武士を辞めてもらった黄金で商人となって財を成したと伝わっています。