我れ公と争ふところは弓箭(ゆみや)にあり米櫃(かて)にはあらず。
私はあなたと弓矢で争うのであって、食糧を手段として争っているのではない。
上杉謙信の言葉です。
武田信玄宛の書状に記載しています。
上杉謙信像 上杉神社 所蔵
永禄(えいろく)10年(1567年)頃に、北条や今川との関係が悪化、武田家は塩止めされてしまいます。
武田家の領国である甲斐と信濃は内陸のため、塩が採れません。
日常生活に不可欠な塩を断たれて、武田家は困ってしまいます。
それを知った上杉謙信は、北条や今川の塩止めを卑怯な行為と批判。
上杉と武田は敵対関係にありましたが、
「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、通常の価格で武田家に塩を売ったそうです。
「敵に塩を送る」はこれを元としています。
この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えられています。
しかし、少なくとも上杉謙信が、北条や今川に同調して塩止めを行ったという記録はありません。
上杉謙信と武田信玄との生涯にわたる因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがあります。