恩義を忘れ、私欲を貪(むさぼ)り、人と呼べるか
他人の恩義を忘れて、自分の私利私欲のために行動することは、人であるとは決して言うことはできない。
※恩義(おんぎ)
報いなければならない義理のある恩のこと。「恩義を感じる」「恩義に報いる」
真田信繁(さなだ のぶしげ)の言葉といわれています。
信繁は、真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られています。
「関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)」にて、真田家は東軍か西軍のどちらかに味方するように決断を迫られました。
そのときに、真田信繁が語った言葉とされています。
真田信繁 上田市立博物館(うえだしりつはくぶつかん) 所蔵
過去に真田氏は徳川氏と争っており、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の命により徳川家康(とくがわ いえやす)と和解。
弱小大名であった真田家は、和解できなければ攻め滅ぼされていたかもしれない状況でした。
真田家は豊臣秀吉、豊臣氏には大変感謝していました。
それから数年後の関ヶ原の戦いが始まる前。
東軍の徳川家康と西軍の石田三成(いしだ みつなり)の両方から味方になるように誘われていました。
西軍の石田三成らは、豊臣政権の基盤を強固にしようとする意志がありました。
当時、信繁と父である昌幸(まさゆき)は、名目上は徳川氏の与力大名(よりきだいみょう)でした。
しかし実際では豊臣氏の家臣であり、豊臣氏との関係も良好でした。
※与力大名(よりきだいみょう)
より大きな大名に加勢として附属させられた武将のこと
世間では、圧倒的に知名度の高い東軍の徳川家康が優勢であろうとの評判だったそうです。
その中であえて不利な情勢にある西軍側に、信繁と父である昌幸は味方します。
豊臣氏の恩義を、今こそ返すときと決意したと推測します。
それから時は過ぎて・・・。
関ヶ原の戦いから15年後の1615年。
徳川家康は豊臣氏を滅ぼすために攻め込みます。
大坂冬の陣と大阪夏の陣です。
真田信繁は嫡男の幸昌(ゆきまさ)と共に、ふたたび豊臣氏の大阪方に味方します。
過去の恩義を今なお忘れず、たいへんに義理がたいですね。
信繁が指揮を執っていた軍は鎧を赤で統一。
真田の赤備え(あかぞなえ)とよばれました。
大阪夏の陣にて、豊臣陣営の予定していた作戦計画は失敗。
死を覚悟した信繁は、徳川家康の本陣目がけて決死の突撃をします。
この突撃は真田隊のみではなく、毛利、明石、大野治房(おおの はるふさ)の部隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。
徳川勢は総崩れとなっていきました。
信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家の松平忠直(まつだいら ただなお)隊の15,000の大軍を突破。
合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行。
精鋭で知られる徳川の親衛隊や旗本(はたもと)、重臣勢を蹂躙(じゅうりん)して、家康本陣に二度にわたり突入。
真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに、家康の本陣の馬印(うまじるし)が倒されるほどでした。
この奮戦により、真田信繁や真田隊は「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と賞賛されました。