冨田重政 (とだ しげまさ)
織田家の前田利家の家臣として仕える。
父は、越前の朝倉家の家臣で、富田流の門人だった山崎景邦である。
織田家において、1583年の能登国末森城の戦いでは、一番槍の武功を挙げます。
このことから利家の賞賛を受け、富田景政の娘を妻としました。
小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても、前田家の武将として従軍しています。
これらの戦功から、1万3670石の所領を与えられました。
その後は老齢のため、前田利長が隠居して前田利常が家督を継いだ頃に隠居しています。
50歳頃、隠居の身でありながら、利常に従って1614年からの大坂の陣にも参戦。
19人の敵兵の首級を挙げるという武功を立てます。
1625年に死去。
享年62歳。
戦国時代における中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられた。
子に、冨田重家、冨田重康、冨田宗高がいます。