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丸目長恵 (まるめ ながよし)




戦国時代の相良家の家臣。

江戸時代初期の兵法家。
タイ捨流兵法の流祖。

上泉秀綱(後に信綱)の弟子として、四天王の1人とも数えられています。





丸目蔵人像






弘治元年(1555年)、島津家が大畑(熊本県人吉市大畑町)に攻めてきたとき、父と共に戦って初陣で武功を挙げる。
父と共に「丸目」の名字(元は山本姓と言う)を与えられた。

弘治2年(1556年)、肥後天草郡の領主の本渡城主・天草伊豆守の元で兵法の修行を行っています。



永禄元年(1558年)に上洛して、新陰流を創始した上泉信綱に師事し兵法の修行に励んだ。

室町幕府将軍の足利義輝の前で、上泉が兵法を上覧したときに、師である上泉の相手として打太刀を務め、義輝より師と共に感状を与えられています。
正親町天皇を前に剣技を見せた際にも同様のことを行っています。



肥後国に帰郷した長恵は、新陰流の指南を相良家で行います。



永禄9年(1566年)に弟子の丸目寿斎、丸目喜兵衛、木野九郎右衛門を伴って再び上洛します。師の上泉信綱は上野に帰国中で留守でした。
長恵は愛宕山、誓願寺、清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げて、諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑みます。誰も名乗り出ず、勝負することなく帰国。

永禄10年(1567年)、「兵法天下一」の高札の件を知った上泉は、上泉伊勢守信綱の名で「殺人刀太刀」「活人剣太刀」の印可状(免許皆伝)を書いて与えられました。



再び肥後国に帰郷した際に、相良家に仕官します。

永禄12年(1569年)、薩摩の島津家久が相良家の大口城を攻めてきました。
島津家久の策にまんまとのせられた長恵の主張に従ったために、相良側は敗戦。多くの将兵を失い、大口城も落城。
敗戦後、相良家当主の相良義陽は、長恵にその責を負わせて逼塞というかなり重い処罰を下されてしまいます。
事実上、武将として立身する夢は絶たれてしまいました。

その後、長恵は兵法修行に専心。
九州一円の他流の兵法を打ち破り、そのことを知った上泉より、西国での新陰流の教授を任されます。



師の上泉が新たに工夫した太刀を学ぶために、弟子を伴って再び上洛するも上泉はすでに死去。落胆して帰国した長恵は、昼夜鍛錬し数年の後、「タイ捨流」を開流したといわれています。



天正15年(1587年)に長恵は勘気を解かれ、再び相良氏に仕えることとなります。
タイ捨流の剣術指南として、新知117石を与えられます。

タイ捨流は九州一円に広まり、相良家中だけでなく他家にも弟子や門人が多数おり、武将の蒲池鑑広や立花宗茂らも門人の1人で、蒲池には秘伝を授けています。



長恵は、剣術以外にも槍術、薙刀術、馬術、忍術、手裏剣に精通。また、書、和歌、仕舞、笛などにも優れた才を示した教養人であったといわれています。

寛永6年(1629年)に死去。
法名は雲山春龍居士。お墓は熊本県球磨郡錦町切原野堂山にあります。