上泉信綱 (かみいずみ のぶつな)
長野家の家臣。
別名で上泉伊勢守と呼ばれています。
上州出身の戦国時代の兵法家。
生年は推測、没年は諸説あります。
上野国の上泉城主であるとともに、兵法家として陰流、神道流、念流などの諸流派を学んだとされています。
諸流派を究め、特に陰流から奇妙を抽出、新陰流を大成します。
信綱の曽祖父義秀は、中条流・念流・京流の達人でした。
祖父である時秀は、それに加えて香取神道流を飯篠長威斎に師事。
父である義綱は松本から天真正伝香取神道流(神道流)を、愛洲久忠から陰流を学んだとし、先祖代々から諸流を修めていたともされています。
信綱の仕えていた長野家は、武田信玄と北条氏康の大軍に攻め込まれます。
信綱は奮戦し、長野家の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を当主である長野業盛からもらったといわれています。
長野家滅亡後は、武田信玄の仕官要請を断ります。
それを惜しんだ武田信玄の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が「甲陽軍鑑」にあります。
武田家に仕えなかった信綱は、新陰流を普及させるために、高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わっています。
「兵法由来覚」では、信綱一行は本国を出たのちに伊勢神宮へ向かい、そこで柳生のことを聞き、大和へ赴いたとされています。
「正伝新陰流」では、京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ねたとされています。
奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いて胤栄と柳生宗厳と出会い、これを下したとされています。
また、上泉伊勢守は、門弟・丸目蔵人佐とともに将軍足利義輝に兵法を披露します。
それに対する義輝からの感状が、熊本県の丸目家に所蔵されています。
信綱は剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わっています。
多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わっています。
門下には、免状を信綱から与えられている疋田景兼、柳生石舟斎、丸目蔵人佐、香坂要などがいます。