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湯浅五助 (ゆあさ ごすけ)




大谷吉継の家臣。



元は関東浪人で、30代(戦国期の平均寿命は30歳前後といわれています)にして大谷吉継に仕えた新参衆です。

吉継の家臣の中において、特に武勇に秀でた槍の名手であったといわれています。

また、家中の岡部小衛門や富永主膳、中田六兵衛らの間では「いかにもしつかに物やわらかなるよきもの」と評されるほどの人格者でした。

他にも、「それほと主人の用に立申候」と評されています。











慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、主君である大谷吉継は石田三成の西軍に属します。

東軍方の小早川秀秋隊の攻撃などによって大谷隊は壊滅。
進退きわまった主君大谷吉継は、信頼のあつい湯浅 五助に介錯をまかせます。

自害する前にハンセン病を患っていた吉継は、「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と五助に申し伝えて果てたといわれています。

五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めます。
埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されてしまいます。

五助は「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。

藤堂高虎は、甥の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告します。
五助の首を見せた際に、家康は手柄を褒めつつも、大谷吉継の側近である五助ならば主君の居場所も知っているはずであると、高刑を詰問した。
しかし、高刑は五助との約束を守り、頑としてその在処を言わなかった。

その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたといわれています(平尾氏箚記)。





五助の墓は、岐阜県関ケ原町に存在。
大谷吉継の墓の隣に、大正5年(1916年)、五助の子孫により建立されました。