山中幸盛 (やまなか ゆきもり)
尼子家の家臣。
別名は鹿介(しかのすけ)。
優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。
また、34歳の生涯で66以上の首級を挙げています。
山中幸盛像 島根県安来(やすぎ)市立歴史資料館蔵
山中幸盛の花押。天正6年7月8日 遠藤勘介宛書状にて記載あり
幸盛21歳の時に、今まで仕えていた主君尼子義久は、毛利家に攻められて降伏を申し出ました。
戦国大名尼子家は一時的に滅びることとなります。
幸盛は主君に随従を願い出たが、許されませんでした。
尼子家滅亡後、幸盛は牢人となります。
月山富田城跡地の太鼓壇公園にある山中鹿介幸盛の銅像。幸盛没後400年を記念して、1978年に建立
その後、幸盛は尼子家の遺児を擁立して、生涯を通じて毛利軍に反抗しています。
籠城戦に敗れて、毛利軍に囚われたこともありました。
そのときは隙を見て脱出しています。
織田軍の助勢の下に尼子家再興をしようとしたこともありました。
最後は、多勢の兵を率いる毛利軍に、籠城している城を包囲されて孤立無援となり、兵糧も底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったために毛利家に降伏。
毛利輝元の下へ護送される途上にて謀殺されました。
幸盛の死をもって、尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなりました。
21歳から34歳まで尼子家再興を願った生涯でした。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名です。
山中幸盛像「月百姿」 月岡芳年にて作画 ウォルターズ美術館所蔵