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鳥居元忠 (とりい もとただ)




徳川家家臣。

父は岡崎奉行などを務めた老臣で、元忠自身も徳川家康が今川家の人質だった頃からの側近の一人。

元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐など主要な戦いに参加。





鳥居元忠像 常楽寺所蔵






慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられる。

家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし、
「我は手勢不足のため、伏見に残す人数は3000ばかりにて汝には苦労をかける」
と述べると、

「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。
もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は、城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」
と答えた。

家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わっています。





家康らの出陣中に、石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正や内藤家長らと1,800人の兵力で立て籠もります(伏見城の戦い)。

元忠は最初から玉砕覚悟であり、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、戦い続けました。
13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。

享年62歳。



その忠節は「三河武士の鑑」と称されました。
このときの伏見城の血染め畳は、元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせたそうです。





過去にも元忠の性格を知りうる出来事がありました。

天正19年(1591年)、元忠に戦功があり、家康が感状を与えようとしました。
元忠は、感状などは別の主君に仕えるときに役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には無用なものであると答えて受け取らなかったと言われています。

また天正14年(1586年)、家康に従って上洛した際、秀吉からの官位推挙の話が度々あったが、元忠は
「某は才無き者でござれば、秀吉公と家康公の両君の恩恵を受けて、2君へ忠を尽くす術を知りませぬ。
殊に三河譜代者にて、万事粗忽でござれば、秀吉公の御前に出仕するべき器量もござりませぬ」
と言って受けなかった。



元忠が嫡子の忠政に言い残した遺戒があります。

「徳川の家風は、守るところの城を明け、難を逃れて命を惜しみ、敵に弱みを見せぬ者ぞ。」

「徳川の御家と盛衰安危を共にし、外に主を取らぬ筋目、寝ても覚めても忘れてはならぬ。また1度の不満に旧恩を忘れ、仮にも別心する事は人の道ではない」。

「何十万の兵に包囲されても難なく囲みを破って逃げる事はできるが、討死するまで戦うのが武士の志であり忠節である。我等においては城踏へ、速やかに討死すべき覚悟なり。何十万騎にて攻め寄せ、千重に囲むといふとも、一方を打破って退ぞかんに手間取るべからず。夫は武士の本意にあらず。忠節とはいひ難し」。