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由布惟信 (ゆふ これのぶ)




立花家の家老。
立花四天王の筆頭。



惟信は「天資英邁にして剛毅也」と伝わっており、立花道雪の重臣として六十五回の合戦に参加。
六十五ヶ所の傷を受け、一番槍、一番乗り、一番首は数知れず。
感状は七十通ほど賜るなど武勇を誇った。

家中において小野鎮幸と共に、奇と正の両翼として立花双璧と称揚され、惟信は正の将を任じた。

立花道雪に付き従う際に嫡男に家督を譲り、残りの人生を立花家のために尽くしています。



永禄5年(1562年)10月13日豊前の大里での毛利家との柳浦の戦いにおいて、騎馬疾駆の姿での奮戦ぶりは敵味方とも驚いたと伝わっています。

永禄11年(1568年)7月4日、立花山崖下の戦いにおいて、立花鑑載配下の猛将である弥須図書助を討ち取ります。

天正15年(1587年)9月の肥後一揆討伐において、同じ老齡であった十時惟由と共に先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破。

大田黒城攻めで再び一番乗りの戦功を挙げた。



余談

仕えていた立花道雪の遺言で「戦場の地に甲冑着け埋葬せよ」との命であった。
家臣共々が頭を抱えていた時、惟信「遺言は重く背きがたい。我はここで切腹し、お供つかまつる」と言います。
他の重臣も我も我もと殉死を願い出ました。

これに対して、原尻宮内少輔「各々方が名誉を好んでそうする事が、果たして統虎(宗茂)公のために良い事か。統虎公のためにこそ、腹を召されよ」と言います。
惟信は「尤もである。祟りがあるならば、この由布一族が罰を受けよう」と述べて、立花軍は道雪の亡骸を伴って帰還したといわれています。