山県昌景 (やまがた まさかげ)
武田家の家臣。
武田四天王(たけだ してんのう)の一人。
※武田四天王(武田四名臣)
馬場信房(ばば のぶふさ) 別名 馬場信春(ばば のぶはる)、内藤昌豊(ないとう まさとよ)、山県昌景(やまがた まさかげ)、高坂昌信(こうさか まさのぶ) 別名 春日虎綱(かすが とらつな)を指す4人のこと。
甲越勇将傳武田家廾四将(こうえつ ゆうしょうでん たけだけ にじゅうよんしょう):山縣三郎兵衛昌景(やまがた さぶろうひょうえ まさかげ) 歌川国芳(うたがわ くによし) 作画
昌景は武田信玄の近習(きんじゅう または きんじゅ、主君のそば近くに仕える者のこと)として仕える。
次に、使番(つかいばん、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職のこと)となる。
武田晴信(信玄)に使えていたころに、信濃(しなの)侵攻における伊奈攻めにおいて、初陣(ういじん、初めて戦場に臨むこと)を果たす。
神之峰城(かんのみねじょう)の攻撃において、一番乗りの功名(こうみょう)を立てます。
天文(てんぶん または てんもん)21年(1552年)の信濃攻めの功績により、騎馬150持の侍大将(さむらいだいしょう)に抜擢(ばってき)される。
その後も戦功を挙げて、譜代家老衆(ふだいかろうしゅう)に列せられて、300騎持の大将となったといわれています。
※「譜代」とは、数代にわたって主家に仕え、家政にも関わってきた家臣のことをさす。
のちに、武田家の譜代家老になった昌景の兄である飯富虎昌(おぶ とらまさ)に勝るとも劣らない武者振りを発揮する。
「源四郎(山県昌景)の赴くところ敵なし」とまで言われたとされている。
かなり武勇に秀でた武将であったようです。
天正(てんしょう)3年(1575年)の長篠の戦い(ながしののたたかい)において、5月21日の設楽原の戦い(したらがはらのたたかい)では武田軍左翼の中核を担い、徳川陣への突撃をかけます。
討ち死にを覚悟した上での奮戦は敵陣を切り裂き、ついには敵防衛の要である馬防柵(ばぼうさく)を突破せん、という所で体中に銃弾を浴びて戦場に散りました。
織田家の討ち取った首のリストの筆頭に上げられているのは、山県昌景の名前であった。
それほど彼の名は敵方にも広く知れ渡っており、武田家の重臣中の重臣(じゅうしん)であったことがわかります。
山県隊は部隊の軍装を赤一色に統一して編成していました。
そのことから「赤備え(あかぞなえ)」として、諸大名から畏怖の対象とされていました。
赤備えを見ただけで、勇猛な兵ですら震え上がったとのこと。
山県隊があまりにも強すぎたことから、赤備えは最強部隊の代名詞となり、諸大名に大きな影響を与えました。
徳川家康の重臣である井伊直政(いい なおまさ)や真田昌幸(さなだ まさゆき)の次男である真田信繁(さなだ のぶしげ) 別名 真田幸村(さなだ ゆきむら)らも赤備えを採用しています。
その強さが、いかに畏敬されていたかがわかります。
あるとき、武田信玄の異母弟である一条信龍(いちじょう のぶたつ)が昌景に対して、「山県隊はなぜそんなに強いのか」と訊ねました。
昌景は「訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣(ういじん)のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたという。