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高橋紹運 (たかはし じょううん)




大友家の家臣。

紹運は法名。

大友義鑑(おおとも よしあき)の重臣である吉弘鑑理(よしひろ あきまさ または よしひろ あきただ)の次男として生まれる。
大友義鎮(おおとも よししげ)と父である吉弘鑑理から1字ずつ賜り、吉弘鎮理(よしひろ しげまさ・しげただ)と名乗る。
のちに、当主である大友宗麟(おおとも そうりん)の命令で、筑後高橋家(ちくご たかはしけ)の名跡(みょうせき)を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)に改名。



高橋紹運 天叟寺(てんそうじ)所蔵




大友家は北九州の各地を転戦。
高橋紹運は主力として参戦。武功をあげる。

天正(てんしょう)6年(1578年)、耳川の戦い(みみかわのたたかい)にて、大友家は薩摩国(さつまのくに)の島津家に、大敗を喫する(たいはいをきっする)。
大友家は多くの重臣や有力武将、そして兵力を失った。



天正(てんしょう)14年(1586年)、島津家は大友家を滅ぼすべく、5万を号する大軍を率いて、現在の福岡県太宰府市にあった岩屋城(いわやじょう)に侵攻。
岩屋城(いわやじょう)には、高橋紹運が籠(こ)もっていました。

このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて、徹底抗戦しました(岩屋城の戦い)。
岩屋城攻防戦において、高橋勢に勝機はないに等しかったが、紹運の部下で逃亡したり、島津軍に降伏したりした将兵は1人もいなかったといわれています。
それだけ紹運は部下から慕われていたようです。

岩屋城攻防戦では、鉄砲、石、弓などを島津軍に猛烈に浴びせかけ、時には門を開けて打って出て遊撃戦術を駆使したりして、島津軍に甚大な被害を与えた。
籠城戦(ろうじょうせん、城などの中にたてこもって敵を防ぐこと)は半月経過し、高橋軍も疲労困憊となり、手傷を負わないものは誰一人いない状況に陥りました。
さらに水の手を切られてしまいました。

結果、半月ほどの攻防戦により、高橋紹運をはじめとする高橋勢は全員討死にし、岩屋城は陥落。
高橋紹運 享年39歳。

紹運以下全員玉砕することになるが、島津軍にも戦死傷者3,000人とも言われる甚大な被害を受けました。
岩屋城を巡る激戦は、戦場を真っ赤にして太宰府を流れる染川を鮮血で染めたというほどだったそうです。

紹運は自害(じがい、自分で自分のからだを傷つけて死ぬこと)する直前、最後の白兵戦(はくへいせん、近接格闘戦のこと)では、紹運自身も島津勢へ突撃して大太刀(おおたち または おおだち)を振るい、斬っては退き、退いては斬り、1人で島津の兵17人を斬りつけたといわれています。

島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまうことになります。
紹運らの命を賭した徹底抗戦は、結果的に島津軍の九州制覇を打ち砕くことになりました。





余談

大友家中にて、立花道雪(たちばな どうせつ)と並んで、風神・雷神と称されています(風神が高橋紹運、雷神が立花道雪)。

「高橋記」は紹運について、「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将であり」と記載があります。
岩屋城で、数百人もの侍が共に戦死した理由がそこにあると記している。

紹運の人となりを「義に生き義兵を以て義に死んだ。家中の勇も仁義の勇である。」
「賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば」と評価しています。

「筑前国続風土記(ちくぜんこく ぞく ふどき)」では、「紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなわざるべし」と評価されている。

高橋紹運は、大変に情け深い(情誼にあつい)人物だったようです。