島津義弘 (しまづ よしひろ)
島津義弘像(尚古集成館所蔵)
戦国時代から安土桃山時代(あづちももやまじだい)にかけての薩摩国(さつまのくに)の武将。
薩摩国(さつまのくに)は、現在の鹿児島県西半部のことです。
戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主となる。
後に剃髪(ていはつ)して惟新斎と号しため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。
武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られる。
戦国時代でも屈指の猛将として当時から有名でした。
弘治(こうじ)3年(1557年)、鹿児島県の姶良市(あいらし)にある蒲生城(かもうじょう)攻めの時、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎打ちを制したり、自らの鎧に5ヶ所の矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたといわれています。
元亀(げんき)3年(1572年)、木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)では、伊東義祐(いとう よしすけ)が3,000の大軍を率いて攻めてきたのに対して、300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して、島津氏の勢力拡大に貢献。
日州(日向国(ひゅうがのくに))一の槍突きとうたわれた柚木崎正家(ゆのきざき まさいえ)を討ち取っています。
天正(てんしょう)15年(1587年)、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州征伐軍と敵対。
日向国(ひゅうがのくに)の根白坂(ねじろざか)で戦った(根白坂の戦い)。
このとき義弘は、自ら抜刀(ばっとう)して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示した。
豊臣秀吉への降伏の際に、島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していました。
しかし、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより、大隅(おおすみ)一国と日向の一部が島津領として残りました。
この事から、義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼(こうぎ、心が通い合った交際のこと)がつづきます。
その後の関ヶ原の戦いにおいて、島津家中において東軍(徳川方)参加を主張するものが主流派であったが、義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に、西軍に積極的に参加したとも言われております。
最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は、江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれています。
島津義弘像(伊集院駅前)
逸話
〇祖父である島津忠良(しまづ ただよし)から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将でした。
〇朝鮮の役において、義弘は主従分け隔てなく兵卒(へいそつ、兵士のこと)と一緒になって、囲炉裏で暖をとったりもしていた。
日本軍の凍死者は続出していたが、このような兵卒への気配りもあってか島津軍には一人も出ませんでした。
〇義弘は日向国(ひゅうがのくに)の伊東家所属である三ツ山城(みつやまじょう)を攻めたときに、重傷を負います。
湯治場(とうじば)として、吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用します。
義弘自身のみならず、島津家の家臣らにも利用を許可しています。
島津家当主として、島津義弘は家臣を大切にしていたことが読みとれます。
〇愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれています。
朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあります。
義弘の、家族を心から愛する人となりがうかがえます。