島津家久 (しまづ いえひさ)
島津家の家臣。
第15代当主である島津貴久(しまづ たかひさ)の四男。
若年の頃より、祖父である島津忠良(しまづ ただよし)から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていました。
永禄(えいろく)4年(1561年)7月、大隅国(おおすみのくに)の肝付家(きもつきけ)との廻坂の合戦で初陣。
家久はまだ15歳ながら、敵将である工藤隠岐守を槍にて討ち取りました。
永禄(えいろく)12年(1569年)、大口城(おおくちじょう)に籠る菱刈家(ひしかりけ)に攻め込みます。
敵方である相良家(さがらけ)の援兵に対して、島津家久は戸神ケ尾と稲荷山に伏兵を潜ませます。
家久自身は雨の降る中、荷駄隊を装った300を率いて大口城の麓の道を通行。
誘い出されてきた大口城兵を伏兵の元へ誘い込んで、首級136を討ち取った。
沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)
天正(てんしょう)12年(1584年)3月、島津軍は有馬家を救援して、龍造寺軍を迎え撃ちます。
そして、島津家久を総大将として島原に向かいました。
島津家久軍は有馬晴信の軍と合わせても5,000~8,000という少数兵力であった。
それに対して、龍造寺軍は18,000~60,000という大軍(両軍の人数については史書により諸説あり)。
家久は、龍造寺軍を沖田畷(おきたなわて)と呼ばれる狭隘の湿地帯に誘い込み、「釣り野伏せ(つりのぶせ)」と呼ばれる島津得意の戦法で、弓鉄砲を効果的に使用して混乱させ、総大将の龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)をはじめ、一門や重臣を含む多くの龍造寺勢を討ちとりました。
※釣り野伏せ(つりのぶせ)
野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て敵を三方から囲んで包囲殲滅する戦法。
まず中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退。
これが「釣り」であり、敵が追撃するために前進すると、左右両側から伏兵に襲わせる。
これが「野伏せ」であり、このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転して逆襲に転じることで、三面包囲が完成する。
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)
天正14年(1586年)、九州制覇を目指す島津家は、島津家久を大将として総勢10,000~13,000を動員。
豊後国(ぶんごのくに)の大友家を攻めようとしていました。
大友家の援軍として、仙石秀久(せんごく ひでひさ)を大将に、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)・信親(のぶちか)父子、十河存保(そごう まさやす または ながやす)など、総勢6,000余りの豊臣連合軍の先発隊が九州征伐のために上陸。
家久はこれを迎え撃ち、敵味方4,000余りが討死する乱戦となった。
敵方である長宗我部信親・十河存保らは討死。
豊臣連合軍は総崩れとなって、島津軍は大勝を収めました。
逸話
島津家久は正室の産んだ子ではなく、妾腹に生まれた子であり、その母は高貴な身分ではなかった。
そのため、家久は島津本家において低い序列であった。
島津の兄弟四人で連れ立って、鹿児島吉野で馬追(うまおい)を行った時のこと。
馬追が終わり、馬を一緒に見ていたとき、歳久(としひさ)は義久(よしひさ)と義弘(よしひろ)に向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬に似ております。人間も同じでしょうね」と言った。
義久は歳久の言わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間も同じようなものとは言っても、人間は獣ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言った。
それからというもの、家久は昼夜学問と武芸にのみ心を砕き、片時も無為に日々を過ごすことはなくなりました。
数年の内に、文武の芸は大いに優れ、知力の深いこと計りがたいほどとなり、四兄弟の間で頼られる存在となっていったといわれています。
ポルトガルの宣教師であるルイス・フロイスは、島津家久を「きわめて優秀なカピタン(武将)」「勇敢な戦士であり、老練な主将でもある」と記しています。