戦国時代の大名や武将、ゲーム等について紹介。

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島清興 (しま きよおき)




石田三成の家臣。

通称は左近(さこん)。
島 左近(しま さこん)の名で広く知られている。

「治部少(じぶしょう、石田三成のこと)に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」と謳(うた)われるほどの逸材といわれました。「古今武家盛衰記」

石田三成から左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの要請を断ってきた左近は同様に士官を断ります。
しかし、石田三成はあきらめませんでした。
三成に三顧の礼(さんこのれい)をもって迎えられ、破格の高禄を食(は)む側近として仕えます。

※三顧の礼(さんこのれい)
目上の人が格下の者の許に、三度も出向いてお願いをすること。
中国において、劉備(りゅうび)が諸葛亮(しょかつりょう)を迎える際に、三度訪ねたとする故事に由来する。





太平記英雄伝廿五(たいへいき えいゆうでん にじゅうご):品之左近朝行(島左近) 落合芳幾(おちあい よしいく) 作画






関ヶ原の戦いの前哨戦において、家康到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍側の中村一栄(なかむら かずうじ)や有馬豊氏(ありま とようじ)両隊に小競り合いを挑んだ(杭瀬川(くいせがわ)の戦い))。
島清興(しま きよおき)はある程度戦うと、敗れた風を装って退却を偽装して、中村と有馬隊を釣り出す事に成功。
追撃した中村と有馬の両隊は、伏兵の奇襲を受けて壊乱状態に陥り、さらに宇喜多家の明石全登(あかし たけのり、あかし てるずみ)が参戦。両隊は大被害を受けて敗走。
このとき、中村家の家老である野一色助義(のいっしき すけよし)が戦死するなど、40人ほどが西軍によって討ち取られたといわれています。
この島清興(しま きよおき)の活躍により、西軍は多いに士気があがったとのことです。





島左近が使用したといわれている「丸に三つ柏」紋






関ヶ原の戦いの本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭(じんとう)に立って奮戦するが、黒田長政の鉄砲隊に横合いから銃撃されて負傷、一時撤退します。
正午過ぎ、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の寝返りを皮切りに、西軍は総崩れとなりました。

左近は死を覚悟して、再び出陣。
正面の田中吉政(たなか よしまさ)や黒田長政(くろだ ながまさ)らの軍に突撃。
奮戦した末に、敵の銃撃により討ち死。

最期の折の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは、東軍諸将のあいだでも語り草となっている。
「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせたことが記されています。
黒田隊の兵士たちは、関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされたとのこと。
夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて、恐怖のあまり布団から飛び起きたと言われています「常山紀談」。

江戸初期の筑前(ちくぜん)福岡城において、関ヶ原に出陣して左近を襲撃した老いた武将達は、その服装について若侍(わかざむらい)相手に語り合いました。
指物(さしもの、戦場で自分や自分の隊の目印とした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗)、陣羽織(じんばおり、武士が陣中において具足の上に着用した上着)、具足(ぐそく、武具)に至るまでそれぞれ記憶が違い、その理由を島左近の恐ろしさに記憶が曖昧であったとしている。