酒井忠次 (さかい ただつぐ)
徳川家の家臣。
徳川四天王や徳川十六神将(とくがわ じゅうろく しんしょう)の一人である。
両方ともに筆頭とされており、家康第一の功臣として称えられた。
酒井家は、祖先を遡ると徳川家とは婚姻関係にあり、深い血縁関係にある。
また、徳川家中における最古参の宿老(しゅくろう)である。
※宿老(しゅくろう)
古参の臣や家老など、重要な地位に就く者のこと。
忠次の愛槍は、甕通槍(かめどおしやり)。
甕(かめ)もろともに、突き抜けて敵を倒したという逸話がある。
酒井忠次像 先求院(せんぐいん) 所蔵
永禄(えいろく)7年(1564年)の吉田城攻めで戦功を立てる。
戦後、吉田城主となる。
※吉田城は、現在の愛知県豊橋市今橋町の豊橋公園内にあった。
元亀(げんき)元年(1570年)の姉川の戦い(あねがわのたたかい)にて活躍。
小笠原信興(おがさわら のぶおき)の部隊と共に、朝倉軍に突入。
開戦の火蓋を切った。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)では、敵軍の小山田信茂(おやまだ のぶしげ)隊と激突し、これを打ち破っている。
酒井忠次時鼓打之図 月岡芳年(つきおかよしとし) 作画。
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)にて、徳川家康が浜松城に逃げ帰った後、酒井忠次(一番左)が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして、味方を鼓舞している。
武田方には伏兵のあることを疑わせて、引き返させたとする「酒井の太鼓」を描写している。
長篠の戦い(ながしののたたかい)では、分遣隊を率いて、武田勝頼(たけだ かつより)の背後にあった鳶ヶ巣山砦(とびがすやま とりで)の強襲を敢行。
鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出し、武田勝頼の叔父である河窪信実(かわくぼ のぶざね)らを討ち取る大功を挙げる。
戦後、織田信長から「背に目を持つごとし」と賞賛されています。
天正(てんしょう)12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に出陣。
羽黒の戦い(はぐろのたたかい)で、森長可(もり ながよし)を敗走させるなど、徳川家康の主な戦いには全て参加している。
戦上手であり、有能な歴戦の武将です。