鬼庭良直 (おににわ よしなお)
伊達家の家臣。
左月斎の号で知られています。
永禄7年(1564年)に伊達輝宗が当主になります。
側近に人材を求めていた輝宗は良直を評定役に抜擢。
これによって良直は遠藤基信と共に輝宗政権の中核を担うことになる。
良直は輝宗の信任によく応え、鬼庭氏に一族の家格が与えられた。
天正13年(1585年)11月17日(西暦では翌1586年1月)、常陸の佐竹義重は南奥の諸侯を糾合し、二本松城を包囲中の伊達軍を攻撃するために安達郡へと攻め寄せました「人取橋の戦い」。
この時、左月斎は政宗から指揮を任されて、金色の采配を与えられました。
兵力に劣る伊達軍はたちまち潰走、佐竹軍に本陣への突入を許す状況となったため、左月斎は政宗を逃がすために殿軍を引き受けて敵中に突入。
左月斎は高齢(73歳)のために重い甲冑が着けられず、兜の代わりに黄綿の帽子を着けるという軽装であったが、最前線に踏み止まって力戦、鬼庭隊は200余の首級を取ったといわれています。
この間に、政宗は辛うじて本宮城に逃げ込むことができ、九死に一生を得ました。
しかし、左月斎は岩城常隆の家臣・窪田十郎に討ち取られました。
主君である伊達政宗は、左月斎の隠居領分の知行を未亡人に与えて、これを終身安堵する旨の朱印状を発給してその功に報いたといわれています。