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岡部元信 (おかべ もとのぶ)




今川家の家臣。
のちに甲斐武田家の家臣となる。



永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは、鳴海城を拠点に織田勢と戦いを繰り広げた。
主君・今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続け、信長が差し向けた織田軍を悉く撃退。

元信は主君・義元の首と引き換えに開城を申し入れます。
信長はその忠義に感動して、義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたと伝わっています。
元信は義元の棺を輿に乗せて先頭に立て、ゆうゆうと鳴海城を引き払ったそうです。

駿府へ帰還するにあたって、戦功の無いまま帰るを良しとせず、刈谷城を100余の手勢で攻撃。
水野信近を討ち取り、城を焼き払った。

この元信の奮戦について、義元の跡を継いだ氏真は喜び、元信に所領の加増と「忠功比類なし」と褒め称えた感状を与えています。



永禄11年(1568年)12月、武田信玄の駿河侵攻によって今川氏真が駿府を追われたため、降伏して武田信玄に仕えます。
天正2年(1574年)6月に勝頼が遠江高天神城を落とすと(高天神城の戦い)、その城将に任命されます。



天正3年(1575年)5月、織田信長・徳川家康連合軍の前に武田勝頼が長篠の戦いで大敗。
家康の遠江侵攻が活発になります。
元信は家康の侵攻を何度も阻み、勝頼はその戦功に報いるために、元信に対して所領の加増を行なった。

家康は正攻法で元信を倒すのは難しいと考え、天正8年(1580年)10月から高天神城の周囲に多くの付城や砦を築き、刈田を行なって兵糧攻めに持ち込んだ(第二次高天神城の戦い)。
元信は勝頼に後詰を求めたが、勝頼は北条氏政と対峙していて後詰を送れませんでした。
そのため天正9年(1581年)3月になると、高天神城の兵糧は底を尽き、城兵は草木をかじって飢えを凌いだ。

元信は覚悟を決めて残った諸将を集めて軍議を開き、「この城に入った時から生きて帰ろうとは考えていない。信玄公・勝頼公の恩義に報いるために打って出る」と叫んで覚悟を表明。
そしてその日の夜、元信は城兵に酒を与えて最後の訣別の宴を開いた。

元信は残った城兵を率いて、徳川軍の大久保忠世の陣に斬り込みを駆けた。
迎撃したのは忠世の実弟の忠教で、忠教はまさか元信が先頭に立って突撃して来たとは思っていなかったため、最初の太刀をつけると、後は家臣の本多主水に任せて他の敵の追討に向かった。
主水は元信に組討ち勝負を挑み、元信は果敢に応戦したが急坂を転げ落ちたところを討ち取られた。

享年に関しては推定70歳。

元信と共に玉砕した城兵は730余に及んだ。



主水は討ち取った時にまさか敵の総大将とは思っておらず、首実検で元信と分かって驚愕したといわれています。

大久保忠教は「城の大将にて有ける岡部丹波をば、平助が太刀づけて、寄子の本多主水に打たせけり。丹波と名のりたらば、寄り子に打たせましけれども、名のらぬうへなり」と大敵を逸した悔しさを述べています「三河物語」。

家康は自らを何度も苦しめた元信を討ち取った事を喜び、その首級を安土城の信長の許に送り届けたといわれています。