新納忠元 (にいろ ただもと)
島津家の家臣。
忠元について、体格は小柄だったとのこと。
性格は、豪胆な人物だったといわれています。
「島津家中興の祖」と呼ばれた島津忠良(しまづ ただよし)から、「看経所にその名を録し、島津氏に無くてはならない四人の一人として残そう」とまで評されています。
※看経(かんぎん または かんきょう) 経典を黙読すること。看経所は経典を黙読する場所のこと。
太平記英勇伝八十三 (新侶武蔵守唯氏とは新納武蔵守忠元のこと)
天文(てんぶん または てんもん)14年(1545年)、薩摩国の有力武将である入来院重朝(いりきいん しげとも)を攻めた際には、入来院家の家臣を一騎打ちで倒して勝利に貢献。
永禄(えいろく)12年(1569年)において、菱刈隆秋(ひしかり たかあき)の拠る大口城(おおくちじょう)を攻め、負傷しているにも関わらず戦場を駆けて「武勇は鬼神の如し」と評されています。
豊臣秀吉の九州征伐時では、徹底抗戦を主張。
主人である島津義弘(しまづ よしひろ)が降伏するに及んで、ようやく秀吉に降伏しました。
豊臣秀吉に降伏した際、忠元は剃髪(ていはつ)して秀吉の前に出向きました。
秀吉から「まだ戦うか」と聞かれると、「如何に逆らいましょうや」と言ったとのこと。
そのあと、「しかし武蔵は武士ですから、主人が戦うなら何時でも立ちます。しかし貴方(秀吉)は安心してよいでしょう。義久は一度でも主従の約を交わした限りは、絶対に裏切りませんから」と薩摩の面目を見せています。
豊臣秀吉への降伏の儀式が終わり、酒宴となりました。
座にいた細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)は忠元が白髭を手でもち上げながら、酒盃を呑み干した様子を面白がり、「鼻の下にて鈴虫ぞなく」と詠みました。
忠元は「上髭を ちんちろりんとひねりあげ」と当意即妙に上の句をつけて返歌し、居並ぶ諸将を感心させた。
和歌や連歌に通じていた逸話が多数あります。
島津家で武功者を数える際に、まず最初に指を折る(名前を挙げる)人物であったことから、「大指武蔵(親指武蔵)」と称されています。
「鬼武蔵」の異名で恐れられていました。
忠元は85歳の生涯を閉じました。
死去に際し、殉死(じゅんし)禁止令が出ていたにもかかわらず、殉死者が2名出ている。
殉死許可のなかった者は、代わりに自らの指を切ったりしており、その人数は50余人にも及んだといわれています。