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毛利勝永 (もうり かつなが)




天正5年(1577年)、森吉成(毛利勝信)の子として尾張国に誕生。
父の吉成と共に豊臣秀吉の家臣として仕えます。



慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に従軍します。
慶長の役では、蔚山倭城に攻寄せた明・朝鮮連合軍撃退に戦功を立てる。



慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に西軍に参戦。
父に代わり中央で軍勢を指揮した勝永は、伏見城の戦いで格別な戦功をあげます。
その功により、勝永は毛利輝元・宇喜多秀家より感状と3,000石の加増を受けます。



しかし、その後は東軍の勝利により、西軍に属していた毛利家は改易となってしまいます。
父と共にその身柄を加藤清正、次いで山内一豊に預けられた。



慶長19年(1614年)、勝永は豊臣秀頼よりの招きを受け、土佐からの脱出を計画。
その際に留守居役の山内康豊に対して、勝永は徳川方に付いた藩主山内忠義とは昔衆道の間柄で身命を賭けて助け合う約束をしているからどうか忠義の陣中(徳川方の包囲側)に行かせてほしいと頼みます。
長男毛利勝家を留守居に、次男鶴千代(太郎兵衛)を城へ人質として残すと云うので、康豊は安心して行かせたが、勝永と共に長男の勝家も船で逃げ去り、恩顧のある豊臣大坂方に走った。

山内忠義は激怒。
鶴千代と勝永の妻と娘は城内に軟禁されてしまいます。



大坂城に入城した毛利勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称された。

大坂冬の陣では、真田信繁らと共に出撃策を唱えたが容れられず、籠城戦では西丸ノ西・今橋を守備。



慶長20年(1615年)大坂夏の陣の5月7日の天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣。
勝永は、戦闘が始まるとすぐに、勇将として名高い本多忠朝(本多忠勝の次男)や小笠原秀政らを瞬く間に討ち取ります。
続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破。
遂には徳川家康の本陣に突入するという大活躍を見せます。

しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。
退却においても勝永の指揮ぶりは水際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで、城内への撤収に成功。



進退窮まった大阪方の総大将である豊臣秀頼は、自害を決意します。
勝永は守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後、息子である毛利勝家や弟の山内勘解由吉近と共に、蘆田矢倉で静かに腹切って自害したといわれています。



余談

大坂の陣が近いと伝え聞いた毛利勝永は、ある日妻子に向かって、「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し、涙を流した。
これを聞いた妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ました。
勝永は喜んで一計を案じ、子・勝家とともに大坂城へ馳せ参じた。

のちにこれを聞いた家康は「勇士の志、殊勝である。妻子を罪に問うてはならぬ」と命じ、勝永の妻と次男の太郎兵衛は城内へ招かれ保護されたといわれています。





道明寺の戦いでは、濃霧のために真田信繁、毛利勝永らの後詰が間に合わず、後藤基次ら名のある武将が討死した。
遅れて合流した真田信繁は勝永に向かって、「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)らを死なせてしまったことを自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。
これを聞いた勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰めたといわれています。「大坂陣聞書」





毛利勝永は、天王寺口の決戦ですさまじい活躍を見せます。
これを望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「あの際立った采配は誰だろう」と尋ねた。
嘉明は「貴殿はご存じなかったのか。彼こそ毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でござる」と答えた。
それを聞いた長政は「この前まで子供のように思っていたのに…さても歴戦の武将のようだ」と驚き、賞賛したといわれています。「武家事紀」





当時、大坂城の戦いを見聞した宣教師は、「豊臣軍には真田信繁と毛利勝永という指揮官がおり、凄まじい気迫と勇気を揮い、数度に渡って猛攻を加えたので、敵軍の大将・徳川家康は色を失い、日本の風習に従って切腹をしようとした。」と報告したといわれています。

勝永のすさまじい奮戦ぶりがうかがえます。





江戸時代中期の文人である神沢杜口(かんざわ とこう)は、自身の著した随筆集「翁草」のなかで、毛利勝永の活躍を賞賛し、「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。
世間には知られていないけれども、毛利勝永は、真田信繁(幸村)にも劣らない活躍をしたと考察できます。





毛利勝永という武将は、勇将でありながら、なおかつ、衰退していく豊臣家に最後まで忠義を尽くした武将であったといえると思います。