戦国時代の大名や武将、ゲーム等について紹介。

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可児吉長 (かに よしなが)




可児吉長は、通称の才蔵(さいぞう)でよく知られています。
若年の頃は、可児吉長は武将というより、大名家の一兵士に近い身分だったとのことです。
宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の開祖、覚禅房胤栄(かくぜんぼういんえい)に槍術を学んだとされています。



織田信長の家臣であった柴田勝家(しばた かついえ)や明智光秀(あけち みつひで)、前田利家(まえだ としいえ)らに仕えた。
次に、織田信長の三男である織田信孝(おだ のぶたか)に仕える。
羽柴(豊臣)秀吉の攻撃を受けて、織田信孝は自害。
その後は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)に仕えた。
天正(てんしょう)12年(1584年3月から11月頃)、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)にて、豊臣秀次は徳川家康に大敗を喫すると、豊臣秀次と対立して浪人になった。
その後、福島正則(ふくしま まさのり)の家臣となりました。
激動の戦国の世にて、流転の人生を歩んでいます。





慶長(けいちょう)5年(1600年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で、福島軍の先鋒隊長として参加。
その前哨戦である岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい)において活躍。

関ヶ原の戦いの本戦では、武の友である梶田繁政(かじた しげまさ)と共に雌雄を争い、大谷吉継(おおたに よしつぐ)の陣へ攻め入ります。
また、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の陣にも突撃して、大将株の首級を互いに取り、徳川家康の本陣へ持ち帰り、徳川家康から互いに賞賛されたとのことです。





逸話

〇織田信長の家臣である森長可(もり ながよし)に仕えていた頃、武田征伐(せいばつ)にて森長可が460余の首級(しゅきゅう、討ちとった敵の首のこと)を実検した際、可児吉長は3つの首を持って長可の前に現れました。
可児 吉長は「16の首を捕り申した」と豪語。
長可が3つしかないではないかと訝る(いぶかる、疑わしく思うこと)と「首が多すぎて捨てました。ただし、捕った首には笹の葉を含ませて置いて参りました」と述べたといわれています。
このことから、可児 吉長は「笹の才蔵」と称されるようになりました。

〇 「先陣を進み、槍を合わすこと二十八、敵の首を捕る事二十騎、言語道断古今無し」と武勇を賞賛されています。

〇当時、才蔵の人気はかなり高かったそうです。
墓前を通る者は才蔵の武勇を賞賛し、その墓前で下馬(げば、馬からおりること)して礼を送ったとのことです。

〇武にすぐれていると高名になった才蔵(可児吉長)に対して、試合を申し込む武者(むしゃ、むさ)が現れました。
才蔵は笹の指物(さしもの)を背中に指し、甲冑(かっちゅう)で身を固め、さらに部下10名に鉄砲を持たせて試合の場に現れたといわれています。
相手が「これは実戦ではなく試合だ」というと、才蔵は「俺の試合は実戦が全てだ」と笑いながら答えたという。
これは、才蔵がたとえ試合でも、油断無く構えていたことを示していたものとされています。

〇晩年においても、意気は少しも衰えず、常に馬を乗り回していたとのことです。
さすがに長刀(なぎなた)は重かったのか、部下に持たせることが多かったそうです。
これを見て部下は「才蔵様も年をとられましたね」と言うと、長刀(なぎなた)を取ってその部下の首を打ち落としたと伝えられています。